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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第九話 夕暮れの二人

 無機質な金属音を立てて閉ざされた生徒会室の扉。壁一面を埋め尽くす異様な肖像画。そして、人間の皮を被った魚顔の体育教師。

 狂気に完全に呑み込まれた学校から逃げるように、凪は自分の鞄だけを掴んで夢見野原高校の校門を飛び出した。

 肺の奥が焼けるように熱い。冬の冷たい空気をどれだけ吸い込んでも、心臓の鼓動が耳障りなほど激しく打ち鳴らされ、息苦しさは一向に消えなかった。

 得体の知れない化け物が教師として平然と徘徊し、生徒たちがたった一人の生徒会長を異常なほど崇拝している閉鎖空間。

 しばらくした後に、たった一人の親友を置いて逃げ出してしまったのではという猛烈な後悔と自己嫌悪が、凪の足を泥のように重くしている。午後、何度も良平に連絡をしても一向に返ってくる事はなかった。用事か何かで早退しているのならまだいい。あんな異常な空間で、良平は数ヶ月も過ごしたのだろうか、そもそも何故誰もあの異常性を訴えないのか、それとも訴えられないような事情があるのか。頭の中で考えがグルグルと回り続ける。

 その時だった。

 ――ブルルッ。

 コートのポケットの中で、スマートフォンが短く震えた。

 凪は弾かれたように顔を上げ、震える指で画面をタップした。メッセージアプリに届いた一通の通知。その送り主の名前を見た瞬間、止まっていた凪の呼吸が大きく吐き出された。


『連絡遅れてごめん。この後、話したい事があるんだ。河川敷で会える?』


 良平からだった。


(よかった……! 無事だったんだ!)


 凪は震える指先で『すぐに行く』とだけ短い返信を打ち込むと、冷たい風を切り裂いて、指定された市内の河川敷へと全力で駆け出した。




 時刻は夕暮れ時。

 空は、まるで世界の終わりを告げるかのように、燃えるような深い茜色に染まり上がっていた。

 冬特有の澄み切った冷気が街を包み込み始めている。天下崎が昼間に訪れていたのと同じ一級河川の土手だが、物々しい現場検証をしていた警察官たちの姿はすでに跡形もなく撤収しており、広く見晴らしの良い河川敷には、ただ静寂だけが広がっていた。

 凪が息を切らしながら土手を歩いていると、再びスマートフォンが鳴った。良平からの電話だ。


「もしもし、良平か!?」


『うん。座って待ってるよ』


 電話越しに響く親友の声は、昼間の教室で見せていたあの怯えきった様子とは打って変わり、どこか憑き物が落ちたような、静かで落ち着いたトーンだった。

 凪が土手の階段を駆け下り、枯れ草の生い茂る道を早足で進んでいくと、少し先の水辺に近い場所に、膝を抱えてぽつんと座る見慣れた背中が見えた。


「良平!


 凪が大きな声で呼びかけながら駆け寄ると、良平はゆっくりと振り返り、力なく、しかし心底ホッとしたような柔らかな笑みを浮かべた。


 彼の細い首元や手首には、制服の隙間からあの痛々しい赤黒い痣がまだ覗いている。だが、その瞳に宿っていた暗い絶望の色は、夕日の光のせいか、ほんの少しだけ薄らいでいるように見えた。


「お前、どこにいたんだよ! 探したんだぞ。……あいつらに、何かされたのか!?」


「大丈夫、昼休み体育倉庫で委員会の仕事してたんだけど、なんだか急に熱っぽくなっちゃってさ。その後は放課後まで、保健室のベッドのカーテンの中でずっと寝かせてもらってたんだ。……せっかく凪が戻ってきてくれたのに、心配かけて本当にごめんね」


「……いや、いいんだ。お前が無事ならそれで」


「ほら、座りなよ」


 良平は、自分の隣の冷たい草むらをポンポンと叩いて凪を誘った。

 凪は無言で深く頷き、隣に腰を下ろした。

 目の前には、沈みゆく夕日を反射して、水面がキラキラとルビーを砕いたように輝きながら、どこまでも静かに流れている。昼間の学校で肌にまとわりついてきたあのじっとりとした狂気が嘘のように、ここだけはあまりにも美しく、穏やかな黄昏の時間が流れていた。


「……急に呼び出してごめん」


 良平は眩しそうに川面を見つめたまま、ぽつりと言った。


「学校では、あんまり話せなかったから。久しぶりに、二人でゆっくり話したいなって思って……」


「謝るなよ。俺のほうこそ……ごめん」


「そっちこそ、謝らないでよ」


 凪が安堵とともに謝罪の言葉をこぼすと、良平は少しだけ嬉しそうに目を細めた。しかし、すぐにまた何かを言い淀むように、きつく唇を噛み締める。


「あのさ、凪!」


 良平は何かを強い決意で打ち明けようとして凪の方を向いたが、すぐにふいっと視線を水面へと逸らしてしまった。


「……やっぱ、なんでもないや」


「なんだよ、改まって。……俺に言えないことがあるのか?」


 凪が優しく問いかけると、良平は首を横に振った。

 冷たい風が二人の間を吹き抜け、枯れ草がカサカサと小さな音を立てる。良平は水面に映る燃えるような夕日を真っ直ぐに見つめながら、静かに、そして一言ずつ確かめるように語りかけ始めた。


「僕らって……将来の夢とかそういうの、ちゃんと話した事あったっけ」


「将来の夢?」


「うん。凪は将来、どんな人間になりたいの?」


 唐突な質問だった。しかし、良平の声には、決して茶化してはいけない、ひどく純粋で真剣な響きがあった。


「俺は……」


 凪は膝の上で両手を組み、少し考え込んだ。

 昨日から今日にかけて、凪の世界は完全にひっくり返った。自分がどれほど無力で、ちっぽけな存在であるかを、嫌というほど思い知らされた。

 やがて凪は、茜色の空を見上げて、ゆっくりと口を開いた。


「……俺は、まだ、将来とかはよく分からないし、なりたい職業とかもないけど……。大切な人を、理不尽から守れるくらい、支えられるくらい強くなりたい。身体的よりかは、精神的にかな。昨日から、自分の無力さを痛感してばかりだからさ」


 凪の答えを聞いて、良平はふっと優しく微笑んだ。


「……凪らしい、いい夢だね」


 良平は再び水面へと視線を戻し、遠くのせせらぎに耳を澄ませるように目を細めた。


「僕はさ……口に出すのは少し照れくさいけど。どんな人にも手を差し伸べる事ができる、ヒーローみたいな人間になりたいって、ずっと考えていたんだ」


「ヒーロー?」


「うん。小さい頃の憧れは、テレビの画面に映る無敵のヒーローだったけど……少しずつ世の中を知ってるうちに、そんな力なんてなくてもヒーローにはなれるんだって思った。……本当にそうなりたいって思ったきっかけは、凪なんだけどね」


 良平は照れ隠しのように鼻の頭を指で掻いた。

 その横顔は、夕日の赤に染まりながらも、どこか透き通るように美しく見えた。


「昔から人と接するのが苦手だった僕に、凪は普通に話しかけてくれた。それに、誰もやりたがらない嫌な仕事を積極的に引き受けたり、困ってる人を助けたり……。そんな凪の姿をずっと隣で見てきて、僕は、凪みたいに私利私欲じゃなくて、自分の信念を持って行動できる人間になりたいって思ったんだ」


 親友からの真っ直ぐで不器用な称賛に、凪は胸の奥がギュッと熱くなるのを感じた。


(俺は……そんな立派な人間じゃない。昨日も……今日だって……俺はただの臆病者だ……)


 そう自嘲の言葉を吐き出しそうになった凪の前で、不意に、良平の穏やかな表情がふっと暗く翳った。


「……実はね。凪が居ない間、僕……何度も死のうって思ってたんだ」


 その言葉に、凪は心臓を氷の刃で貫かれたような、凄まじい衝撃を受けた。


「死のうって……お前……っ」


「凪が長期欠席でいなくなった後、突然、クラスの皆からの当たりが強くなってさ。最初は軽いいじりだったんだけど、段々エスカレートしていって……暴力や、無視や、理不尽な命令とか。色んなことに耐えられなくなった」


 良平は自分の腕に残る生々しい痣を、そっと反対の手で覆い隠すように撫でた。

 凪は弾かれたように身を乗り出し、良平の細い肩を両手で強く掴んだ。


「……ごめん! 俺……全然、気づけなかった。お前が病室に見舞いに来てくれた時も、メッセージをくれた時も、ずっと一人で苦しんでたのに……っ!」


 感情が激しく昂り、凪の目からボロボロと大粒の涙が溢れ落ちた。

 親友の悲痛なSOSに気づけず、のうのうと無菌室のベッドで守られ、平和な日常を夢見ていた自分自身への、激しい怒りと悔恨だった。

 しかし、良平は凪の涙を見るなり、慌てて首を横に振った。


「違うんだ、凪! 謝らないでよ。僕がいじめられてることを秘密にしていたのは、僕自身の選択なんだから」


「お前の、選択……?」


「うん。凪は大変な病気で入院して、一人で必死に戦ってたじゃないか。そんな時に、僕のことで迷惑をかけたくなかったし……何より、一番の親友に余計な心配をさせたくなかったんだよ」


 良平は優しく凪の手を握り返し、困ったように笑った。


「ごめんね、水臭かったかもしれない。でも、凪が退院して元気に戻ってきてくれることだけが、あの時の僕の唯一の希望だったんだ」


 その優しすぎる親友の言葉に、凪は嗚咽を漏らしそうになるのを必死で噛み殺した。その時だった。


「……でもね。そんな一番辛かった時、生徒会長が励ましてくれたんだ」


「……え?」


 凪の目から溢れていた熱い涙が、一瞬にして冷たく凍りついた。


(生徒会長……深田はじめが、良平を励ました?)


 あのガラス玉のような目をした、感情の一切が欠落した得体の知れない男。壁一面に自分の写真を貼られた異常な職員室。アレが、良平に救いの手を差し伸べたというのか。

 凪の内心の戦慄をよそに、良平は夕日を見つめながら静かに言葉を紡ぐ。


「うん。それに、凪のことを思い出したら……凪が帰ってくるまではまだ死ねないなって、そう思えたんだ。……多分、生徒会長と凪が居なかったら、僕はもう、この世にいなかったかもしれない」


 良平は深く俯き、自分の膝の上に視線を落とした。


「……良平」


 凪は震える己の感情と焦燥感を必死に奥底へと押し込み、俯く親友の両肩を力強く掴み直した。


「話してくれて、ありがとう。今まで一人で抱え込ませて、本当にごめんな」


「凪……」


「俺は、もうお前を絶対に一人になんかしない。お前がどんな理不尽な目に遭っても、全部ぶっ飛ばす。……お前、どんな人にも手を差し伸べるヒーローになりたいんだろ? だったら、まずは自分のこともちゃんと大事にしてくれよ」


 凪の真っ直ぐで、熱を帯びた誓いの言葉に、良平は弾かれたように顔を上げた。

 茜色に染まる彼の瞳から、堪えきれなくなったようにポロポロと涙がこぼれ落ちる。良平は制服の袖で乱暴に涙を拭い、照れくさそうに、けれど今日一番の晴れやかな笑顔を見せた。


「……ありがとう。凪に話したら、不思議と段々自信が湧いてきたよ」


 良平は立ち上がり、冬の冷たい風を胸いっぱいに吸い込んだ。


「僕も……凪や、生徒会長みたいに、強く生きれるように頑張るよ!」


 その言葉の端に純粋な信頼として混じった『生徒会長』という単語に、凪の胸は鋭い針で刺されたようにチクリと痛んだ。


(お前は何も知らなくていい。いじめだろうが、あの化け物だろうが関係ない。俺がお前を守り抜いてみせる……!)


 凪もまた立ち上がり、親友に向けて力強く頷いてみせた。

 気づけば、燃えるような夕日はすっかり地平線の向こうへと沈みかけ、周囲は深い夜の帳が下りようとしていた。冬特有の刺すような冷気が、二人の制服越しに肌を撫でる。


「もう日が暮れそうな時間だね。すっかり暗くなっちゃった」


 良平は制服についた枯れ草を手で払いながら、ふと凪を振り返った。


「ねえ、凪。良かったら……この後、うちでご飯食べない?」


「お前の家で?」


「うん。母さんも、凪が退院して元気に戻ってきたって知ったら、絶対に喜ぶと思うんだ。久しぶりに、うちのハンバーグでも食べていきなよ」


 少しはにかみながら誘ってくれる良平の顔を見て、凪は迷わず頷いた。


「ああ、行くよ。一応親に連絡はしなきゃだけど。おばさんのハンバーグ、入院中ずっと食べたかったんだ」


 それに、得体の知れない化け物や教団が暗躍するこの街で、日が暮れてから良平を一人で帰らせるわけにはいかない。


「じゃあ、行こっか。今日は僕の奢りで、途中でジュースでも買っていこうよ」


「おっ、太っ腹だな。じゃあ遠慮なく高いやつ頼むわ」


 他愛のない冗談を交わしながら、二人は完全に日の落ちた河川敷の土手を並んで歩き出した。

【志村良平】

夢見ヵ原高校に通う凪の同級生であり、幼なじみであり、親友である。

凪が不在の1年間で、同学年の生徒から露骨なイジメを受けてきた経験があるが、その間は「深田はじめ」が精神の支柱となっていたらしい。

現在の特撮オタクは、幼年期凪が無理矢理良平にヒーローものを観させ続けた事が起因している。


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