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箱庭の百合  作者: Kibana
黄昏時に夢をみる
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第八話 虹橋デパート跡地

 駅前のファミリーレストランで天下崎星也と別れた後。

 翼、結衣、そして百合の三人は、底冷えのする冬の風を避けるようにして、駅近くにある小さな公園のベンチに腰を下ろしていた。

 翼と結衣はそれぞれのスマートフォンの画面を食い入るように見つめ、ブラウザの検索窓に思いつく限りの関連単語を次々と打ち込んでいた。

 だが、事態は彼らが想像していた以上に手詰まりだった。

 凪からグループチャットで共有された「深口貿易」については、先ほどファミレスで調べた通り、事業内容すらまともに記されていない、ダミー会社らしき薄っぺらいホームページが一つ出てきただけだ。そこから教団や化け物との繋がりを証明するような足跡は、いくら探っても見つからない。

 そして何より彼らの頭を悩ませていたのは、もう一つの重要なキーワードだった。


「……ダメね。全く引っかからないわ」


 結衣は小さくため息をつき、酷使した目を休ませるようにスマートフォンの画面をオフにした。

 冷え切った指先をコートのポケットに突っ込み、白く濁る息を吐き出す。


「『海還り』。ネットの海をどれだけ深く探っても、そんな名前の集団や噂話、一つも出てこないわ。オカルト系の掲示板や、SNSの過去の投稿まで何年も遡ってみたけど……完全に空振りよ」


「俺の方も同じです。…… 警察や俺らはあの化け物たちを『海還り』と呼んでいますが、一般には全く知られていない、警察内部だけの秘匿された呼称なんでしょうか」


 翼が眉間を深く揉みほぐしながら言うと、結衣は手元のスマートフォンを両手で強く握りしめ、沈痛な面持ちで俯いた。


「……ねえ、翼さん。私、どうしても胸の奥に引っかかってるの」


「引っかかってる?」


「お兄ちゃんのことよ」


 結衣の口から絞り出すように出た言葉に、翼はハッとして顔を上げた。


「お兄ちゃんは昨日、家で話している時『海還り』って呼んでいたわ」


 結衣の声には、実の兄に対する強い疑念と、ほんの少しの恐怖が入り混じっていた。

 彼女の言葉が持つ意味の重さに、翼も口を閉ざす。


「警察の機密情報にもなっているような化け物の名前を、ただの会社員であるはずのお兄ちゃんが、どうして知っていたの?」


 結衣は俯いたまま、膝の上で自身のコートの生地をギュッと掴んだ。

 昨日、六丁目の路地裏で命の危機に瀕した彼らを、自宅で手厚く介抱してくれた恩人。結衣にとっては、昔から誰にでも優しく、困っている人を放っておけない自慢の兄なのだ。

 だからこそ、彼の口からあの化け物の呼称がごく自然に飛び出したという事実が、結衣の心に冷たいトゲのように刺さって抜けないのだろう。彼がもし、あの異常な化け物たちや教団と何らかの繋がりを持っていたとしたら。その想像は、結衣から家族という最後の安息の場所すらも奪い去りかねないものだった。


「……確かに不自然ですが、偶然何処かで知ったのか…それとも何か事情があるのかも。……でもまあ、実際柊生さんは俺たちを助けてくれましたしね」


 翼は結衣を安心させるように、なるべく穏やかな声で言った。

 その時。

 ふいに、隣に座っていた結衣がビクッと肩を震わせ、何かに怯えるように周囲をキョロキョロと見回した。


「……結衣さん? どうしたんですか」


「分からないけど……今、誰かに見られているような気がして……」


 結衣は不安げに自身の肩を抱き、背後にある古びた雑居ビルを見上げた。

 だが、色褪せた窓の向こうには誰の人影もない。代わりに、ビルの屋上の給水塔の陰から、カァ、カァとひどく不吉な鳴き声を上げて、数羽の黒いカラスが冬の曇り空へと飛び立っていくだけだった。

 ただの気のせいだったのか。それとも、すでにあの教団や『海還り』の冷たい監視の目が、彼らの平和な日常のすぐそばまで迫っているのだろうか。ただただ不安と嫌な思考のみが頭に浮かんでくる。

 結局、いくら経っても二人の間に漂うモヤモヤとした重苦しい空気は晴れなかった。ネットで調べてもこれ以上の有益な情報は出ず、推測だけで兄を疑い続けるのは精神衛生上良くない。彼らは完全に手詰まりの状況に陥っていた。


「うーん……。ここで頭を抱えてても、埒が明かないわね」


 結衣が疲労感を隠せない様子でベンチの背もたれにぐったりと体を預けた、その時だった。


「ねえねえ、二人とも。だったらさ、『デパートの跡地』に行ってみようよ!」


 ベンチの隣で退屈そうに短い足をぶらぶらさせていた百合が、突然立ち上がり、翼と結衣の顔を交互に見つめて言った。


「デ、デパートの跡地って……虹橋デパートの事か!?」


 翼は思わぬ百合の提案に目を丸くし、次いで血相を変えて強く首を横に振った。


「馬鹿言うな、百合! あそこは危険な人達がいるかもしれない、天下崎さんからも、絶対に近づくなって固く止められてただろう?」


「そうよ、百合ちゃん。いくらなんでも危険すぎるわ。あなたみたいな小さな子を、そんな危ない場所に連れて行くわけにはいかないもの」


 結衣も翼に同調し、保護者としての強い口調で百合を窘めた。

 だが、百合は引き下がるどころか、むすっと不満げに頬を膨らませ、両手を腰に当てて二人を真っ直ぐに睨み返した。


「二人とも、私に何か隠し事してるでしょ?」


「え……?」


「今日ずっと変だよ。翼も結衣お姉ちゃんも、難しい顔してコソコソお話してばっかり。ただの探偵さんのお手伝いをしてるだけだって言ってたのに、お手伝いをするだけで、なんでそんなに命が危ないくらい危険なの?」


 子供ならではの、一切の建前を取り払った純粋で鋭い追及。

 翼と結衣は、痛いところを突かれたように言葉に詰まった。

 百合をこれ以上不安にさせまいと「探偵の調査の手伝い」という嘘をついてここまで連れ歩いていたが、やはりこの聡明な少女には、大人たちの間のピリピリとした異常な空気などとうに見透かされていたのだ。


「そ、それは……」


 翼は焦って目を泳がせ、必死に取り繕うための言葉を探した。


「別に、絶対に命が危険ってわけじゃないんだ。ただ、あそこはまだ瓦礫も残っている廃墟だし、さっきも言った通り……天下崎さんが追ってる危険な人達がいるかも知れない。何があるか分からないから、大人としてお前を連れて行くのは危ないってだけで……」


「それは『かも知れない話』でしょ?」


 百合はすかさず、翼の苦し紛れの言い訳を真っ向から切り捨てた。


「ここに座ってスマホと睨めっこばっかりしてても、結局何も分からないんでしょ? そんなの、ただ時間の無駄じゃない!」


「……それは……」


「……自分たちで確かめに行かないで、天下崎さんにおんぶにだっこで、本当にそれでいいの?」


 その言葉は、まるで鋭い刃物のように、翼と結衣の心の奥底を深くえぐった。


(……俺は、何をやってるんだ)


 翼は膝の上で両手を強く握りしめ、自身を恥じた。

 百合の言う通りだ。天下崎から止められたから、危険だから。そんなもっともらしい理由を並べて、自分たちは心のどこかでホッとしていなかったか。

 ネットで安全な場所から検索し、結衣の兄を疑い、事態が好転するのをただ待っているだけ。彼らは、危険な最前線の調査をすべて元刑事である天下崎に押し付け、自分たちは外堀を埋めている気になっていただけなのだ。

 あの廃墟は、翼と百合にとって『二年前の爆破事故』という、自分たちの人生を決定的に狂わせた強い因縁の場所だ。自分が一体何者だったのか、なぜあの日あの場所にいて、記憶のすべてを失ってしまったのか。その渇望する答えが、あの瓦礫の下に眠っているかもしれない。

 そして結衣にとっても、毎晩自分を狂いそうなほど苦しめている『黄色いレインコートの女』の悪夢。そのすべての根源が、あそこにあるかも知れないのだ。

 誰かに頼りきりで、本当に自分自身の過去や悪夢を乗り越えることなどできるはずがない。


「…… 百合ちゃんの言う通りね。私たち、自分の問題から逃げて、甘えていたみたい」


 結衣はゆっくりとベンチから立ち上がり、自分の弱さを完全に振り払うように、固い決意を秘めた目で翼を見下ろした。


「天下崎さんには悪いけど、このままここで待機していても、事態は何も変わらない。私たちの目で、直接確かめに行きましょう」


「結衣さん……。でも、万が一何かあったら……」


「中まで深追いする気はないわ。いざ危ないってなったら、翼さんが全力で百合ちゃんを抱えて逃げなさい。私だって、自分の悪夢の正体をどうしても知りたいのよ」


 結衣の瞳に宿る決して退かない意志の強さと、百合の背中を押すような視線を受けて、翼は短く息を吐き出した。

 ここで逃げれば、一生真実に辿り着けないばかりか、この小さな少女に言われるだけの情けない大人になってしまう。


「……分かりました。でも、絶ッ対に百合は俺から離れない事。いいね」


「うん、分かった!」


 翼も覚悟を決め、ベンチから立ち上がると、百合の小さな手をしっかりと握りしめた。




 午後三時過ぎ。

 冬の傾きかけた淡い陽射しが、冷たい風とともに街を吹き抜ける中。

 翼、結衣、百合の三人は、天下崎の忠告を破り、すべての因縁が眠る場所――『虹橋デパート跡地』へとついにたどり着いた。

 二年前、数百人もの命を奪う大惨事を引き起こしたその場所は、すでに無残な廃墟と化していた。

 ニュースの映像で見たような倒壊した際の巨大な瓦礫はあらかた撤去されており、現在は無骨な鉄骨の寒々しい骨組みと、無数にひびの割れたアスファルトの広大な平原が広がっているだけだ。かつてこの街の中心として人々で賑わっていた商業施設は、まるで巨大な墓標のように静まり返っている。

 広大な敷地の周辺には、警察が張った立ち入り禁止を示す黄色い『KEEP OUT』のテープが風に煽られてパタパタと音を立てているが、警備の警察官はおろか、近づく人影すら全く見当たらない。


「ここが、虹橋デパートの……」


「……あの教団が居座ってるとは思えないような閑散さね」


 翼は思わず息を漏らし、広大な廃墟を見渡した。

 二年前の記憶は一切ないはずなのに、この場所に立つと、なぜか胸の奥がざわざわと黒く波立ち、得体の知れない強い不安と焦燥感が込み上げてくる。

 結衣もまた、自分の悪夢の震源地を前にして、無意識のうちに百合の手を強く握りしめていた。


「……ん?」


 ふと、三人の視線が廃墟の『中央部分』で不自然に止まった。

 おかしいのだ。ただ建物が内部から爆発して倒壊しただけなら、あんな異様な跡にはならないはずだ。

 アスファルトが広がる廃墟のど真ん中には、まるで巨大なスプーンで抉り取られたかのような『綺麗な円状の穴』がぽっかりと空いており、そこから地下フロアだったはずの薄暗い空間が、アリの巣のように剥き出しになっていた。


「なんだ、あの穴……。爆発事故で、あんなに綺麗に地面が削り取られるなんてこと、あるのか?」


 翼が訝しげに呟き、規制線のテープの外側から、少しでも穴の中の様子を窺おうと身を乗り出した、その時だった。


「…… お前ら、ここで何やってる」


 背後から唐突に投げかけられた、低くドスの効いた怒声。

 三人はビクッと肩を激しく跳ねさせて振り返った。

 そこに立っていたのは、くたびれた厚手のコートのポケットに両手を突っ込み、ひどく不機嫌そうに眉間に深いシワを寄せた、天下崎星也だった。


「あ、天下崎さん!? 河川敷のニュースの現場に行ってたんじゃ……」


 翼が驚いて裏返った声で尋ねると、天下崎は忌々しそうに鼻を鳴らして長いため息をついた。


「そっちはあらかた情報が引き出せたから、ついでにここを探りに来たんだよ。それなのにお前らと来たら昨日と続いて今日も……どうやら忠告の意味を理解してないらしいな」


 天下崎の凄みのある鋭い視線が、翼の足元でビクビクと怯えている百合へと向かう。


(よりによって、ただの素人がガキまで連れて、のこのこ敵のアジトかも知れない所にやってきやがったか……。どうしようもねえ馬鹿どもだ)


 天下崎の無言の厳しい追及に、結衣は気まずそうに目を逸らした。


「……ご、ごめんなさい。でも、ネットじゃ全然情報が出なくて、完全に手詰まりだったのよ。それに……」


「ダメと言われた所に行く方が、探偵っぽいでしょ?」


 言い淀む結衣を庇うように、百合が天下崎を真っ直ぐに見上げて小さな胸を張った。

 そのあまりにも堂々とした、一切の悪気がない言葉に、天下崎は一瞬ポカンとし、やがて毒気を抜かれたようにガシガシと自分の頭を掻き毟った。


「ハッ……。ガキが探偵の真似事か。こう何度も警告を無視されりゃ、今から俺が帰れと言っても、またどっかでコソコソ嗅ぎ回るのは分かってる……言っておくがこれはお前らへの信頼がゼロになったって意味だぞ」


 天下崎は呆れ半分にそう言うと、周囲の通りに誰もいないことを鋭い目で確認し、張られていた規制線のテープをヒョイと持ち上げた。


「俺一人の足なら万が一の時もどうとでもなるが、お前らがいるなら話は別だ。いいか、中に入るなら絶対に俺から離れるな。勝手な真似をしたら置いていくぞ」


「…… ありがとうございます、天下崎さん」


 翼の返事を聞き、天下崎を先頭にして、四人はついに規制線を越えて廃墟の中へと足を踏み入れた。




 周囲に人影はない。ひび割れ、雑草がまばらに生えかけたアスファルトを踏みしめながら、四人は廃墟の中央に空いた異様な円状の穴へと近づいていく。


「相変わらず、意味不明な形だ」


 穴の縁から覗き込んだ天下崎が、鋭い目で地下の暗闇を睨み下ろした。

 ぽっかりと空いた巨大な穴の底には、まだ完全に撤去しきれていない瓦礫の山が残っている。しかし、その削られたコンクリートや土の断面はあまりにも滑らかで規則的であり、爆薬などによるただの爆発事故でできたものとは到底思えなかった。


(俺が捜査してた時とそんなに変化は無しか……もし何者かが暗躍してるなら、前には気づかなかった手がかりの一つや二つくらいあって欲しいもんだが……)


 天下崎が心で呟いていると、目を凝らして穴の周囲を観察していた結衣が、ぽつりと声を上げた。


「……あそこ。地下に続く階段が残ってるわ」


 彼女の指差す先、円状の穴の端の方に、かろうじて崩落を免れた無機質なコンクリートの階段が、薄暗い地下フロアへと向かって伸びているのが見えた。


「……行くぞ。足元に気をつけろよ」


 天下崎の静かな合図とともに、四人は張り詰めた空気の中、教団の拠点となっているであろう地下フロアへ向けて、一段ずつ慎重に階段を下り始めた。


天下崎を先頭に、翼、結衣、そして百合の四人は、ひんやりとした重い冷気が漂う地下への階段を音を立てないように下りていった。一度中を捜査したことのある天下崎が、先陣を切るとのことだった。

 地下フロアへと続く最後の数段に差し掛かったところで、ふいに先頭の天下崎がピタリと足を止め、背後の三人に「止まれ」と鋭く手で制した。


「……静かにしろ。奥から、複数人の息遣いが聞こえる」


 天下崎の微かな囁きに、翼たちはハッとして息を殺した。耳を澄ますと、確かに静まり返った廃墟の奥底から、微かな衣擦れの音と、ボソボソとした人の話し声が漂ってくるのが分かる。

 四人は足音を極限まで忍ばせ、階段の影からそっと地下フロアの中へと視線を向けた。

 そこは、二年前の大惨事の爪痕が最も色濃く残る場所だった。

 地下フロアはまだ完全に瓦礫を撤去できていないようで、崩落したコンクリートの巨大な塊や、ひしゃげて赤錆の浮いた鉄骨がそこかしこに無残に散乱している。

 そして何より異様なのは、やはりフロアの中央部分だ。

 地上で見たのと同じように、地面が巨大なすり鉢のように『綺麗な円形』に深く削り取られており、同じようにぽっかりと空いた天井の穴から、冬の冷たい日光がスポットライトのように地下の現場を直接照らし出していた。


(爆破の中心はこの地下フロアなのか? だが、何故あんなに綺麗な円のような削れ方をしているのに、周辺は瓦礫の山ができるような普通の崩れ方をしているんだ……? まるで、二つの異なる現象が同時に起きているかのような……)


 翼がその物理法則を無視したような異様な光景に目を奪われていると、再び天下崎が鋭い視線を、日光の当たらない奥の暗がりへと向けた。


「……来るぞ。隠れろ!」


 天下崎の低い声と同時に、フロアの奥から「ザッ、ザッ」と瓦礫を踏みしめる複数の足音が近づいてくるのが聞こえた。

 四人は慌てて階段の脇にある大きな瓦礫の山の裏へと身を滑り込ませ、息を潜めた。翼は百合の小さな体を自分のコートで包み込むように抱き寄せ、結衣も恐怖で漏れそうになる息を両手で口元を覆って必死に抑え込む。

 やがて、瓦礫の向こう側――天井の穴から日光が照らし出す円形の空間の縁に、三つの人影がゆっくりと姿を現した。


「っ……!」


 その姿を見た瞬間、結衣の喉から悲鳴が漏れそうになり、彼女は必死で自分の口を塞いだ。

 現れたのは、頭からすっぽりと『黄色いレインコート』を被った三人組だった。

 顔の判別はつかないが、結衣が毎晩悪夢でうなされている、あの不気味な女と同じ異様な出で立ちだ。間違いなく、警察がマークしているという怪しげな教団の信者たちである。

 三人組は瓦礫の裏に翼たちが潜んでいることには全く気づいていない様子で、明るい場所に立ち止まると、ひそひそと密談を交わし始めた。


「…… 『海還り』が、妙な動きをしだした。ビヤーキーの準備を怠るなよ」


 信者の一人が、低く濁った声で仲間に警告した。


(ビヤーキー……?)


 昨日、結衣が黄色いペンダントの魔術で呼び出した異界の生物と全く同じ名前が聞こえた事に、結衣は強烈な違和感と戦慄を覚えた。なぜ、教団の人間が魔術の生物の名前を知っているのだろうか。


「それより、黄衣のこういのおうとの交信が出来たというのは本当なのか!?」


 別の信者が、焦燥感を滲ませた声で身を乗り出すように尋ねる。


「厳密には違うらしいが……その『依代よりしろになり得る人間』に、変化が出たらしい」


「なんとしてでも、奴らよりも先に『王』を復活させなければ……」


 海還り。ビヤーキー。黄衣の王。そして、依代になり得る人間。

 断片的な、しかし狂気に満ちた儀式めいた会話の単語が、静かな地下フロアに不気味に響き渡る。

 翼たちは瓦礫の影で、その会話の一言一句を逃さぬよう耳に焼き付けた。やがて、三人組は深いフードを被り直し、足音を響かせながらフロアのさらに奥の暗闇へと姿を消していった。


「……行ったか」


 足音が完全に遠ざかったのを確認し、天下崎が小さく息を吐き出して立ち上がった。


「聞いたか。やっぱりただの宗教団体じゃねえ。あの海還りの連中と対抗するために、何かとんでもないテロか何かを企んでやがるぞ」


「天下崎さん、これ以上は危険です……。一度ここを出て戻って、情報を整理した方が」


 翼がそう提案し、四人が瓦礫の物陰から出ようと足を踏み出した――まさに、その時だった。

 ――トン、と。

 瓦礫の物陰から立ち上がろうとした最後尾の結衣の肩に、背後から『何者かの手』が置かれた。


「ひっ……!」


 結衣は心臓が口から飛び出そうになるほど跳ね上がり、声にならない悲鳴を漏らした。

 恐る恐る振り返った彼女の目に飛び込んできたのは、頭からすっぽりと『黄色いレインコート』を被った、一人の女性の姿だった。

 音もなく背後に立っていたその女性の顔に、結衣、そして異常に気づいて振り返った翼と天下崎は見覚えがあった。昨日、六丁目の裏路地で彼らと海還りとの戦闘を高所から静観し、得体の知れない言葉を残して去っていった、あの女性教団員だったのだ。


(いつの間に……! 俺が全く気配に気づけなかっただと?)


 天下崎が戦慄し、即座に翼たちを庇うように前に出る。

 しかし、女性は敵意を見せることもなく、ただ静かに、顔に貼り付けたような薄い微笑みを浮かべて結衣たちを見下ろしていた。


「……運が良かったですね」


 女性は、まるで昼下がりの世間話でもするかのような、ひどく穏やかな口調で囁いた。


「私以外の教団員に見つかっていたら、今頃、猛獣の餌にされてましたよ」


 猛獣の餌。

 その言葉の奥底に潜む本物の狂気と凄みに、翼は背筋が凍るのを感じ、百合の小さな体をさらに強く抱き寄せた。先ほどの三人組が口にしていた「ビヤーキー」という単語。それが単なる暗号ではなく、文字通りの『猛獣(化け物)』であることを明確に示唆していた。


「知らなかったのなら申し訳ありませんが、ここはすでに、教団が先約しています」


 女性は天下崎の射抜くような鋭い眼光を柳に風と受け流し、静かに告げた。


「どうやら貴方たちは、交渉決裂と言いながら独自に海還りについて調べているようですし、今のところは我々に害をなしていません。今すぐ立ち去るなら、貴方たちのことは見なかったことにしましょう」


(…なぜ俺たちの行動を……)


付けられていた、もしくはそういった類の魔術があるのか、天下崎は幾つもの可能性を考慮し、ぽつりと呟く。


「…… 行くぞ、お前ら」


 天下崎は短く舌打ちをし、翼と結衣に顎で出口の階段を示した。

 ここで戦闘になれば、翼たちは愚か、幼い百合まで巻き込むことになる。相手の言う「猛獣」が多数潜んでいるのであれば、勝ち目は絶望的に薄い。理性が今は素直に引くべきだと告げていた。


「分かりました……。百合、静かに歩くんだぞ」


 翼が百合の手をしっかりと握り、結衣も恐怖で震える足を必死に動かして、来た道を戻るべく階段へと向かって歩き出した。

 四人が瓦礫の影を抜け、地下フロアから地上へと続く階段に足をかけた、その時だった。


「一つ、忠告です」


 背後から、女性の静かな声が響いた。

 結衣が思わず立ち止まって振り返ると、女性は黄色いフードの奥から、底知れないほど冷たい瞳で結衣たちを見つめていた。


「余計な事に首を突っ込むのは、あまりオススメしませんよ」


 女性の口角が、ほんの少しだけ不気味に吊り上がる。


「貴方たちはただ、『海還り』について調べていればいいのです」


 女性はクルリと背を向けると、先ほどの三人組と同じように、地下フロアの暗闇の奥へと足音もなく消えていった。


「結衣さん、大丈夫ですか」


「え、ええ……」


 結衣は自分の肩をきつく抱きしめながら、青ざめた顔で震える声で呟いた。

 二年前の事故の跡地を占拠する『黄色いレインコートの教団』。

 彼らもまた、海還りと同じように何か途方もない事を起こそうとしている。それが何かはまだ分からないが、手に入れた情報と警告はあまりにも重く、おぞましいものだった。

 四人は逃げるように冷たいコンクリートの階段を駆け上がり、狂気に満ちた地下フロアから、冬の冷たい風が吹きすさぶ地上へと生還した。

【黄衣の教団(アルデバラン教団)】

虹橋デパート跡地を拠点としている教団。

「黄衣の王」と呼称する何かを崇めており、教団メンバーは皆黄色い衣装を着ている。

「海還り」とは違い、教団員は皆人間である。


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