過去の夢
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どこまでも、どこまでも灰色の瓦礫が続いていた。
かつては天を突くような高層ビル群だったのだろう。巨大な獣の肋骨のように無惨に折れ曲がった鉄骨の残骸が、ひび割れたアスファルトの大地を果てしなく埋め尽くしている。ひしゃげた標識や、原形をとどめていないコンクリートの塊が乱雑に散らばるその光景は、人類の文明というものが完全に息絶え、悠久の風化の果てに骸を晒しているかのような、圧倒的な終末の様相を呈していた。
風の音すらない。虫の這う音も、機械の駆動音も、生命の息吹を証明するものは何一つ存在しない。耳の奥がキーンと痛くなるほどの、絶対的な死と静寂に支配された世界だった。大地からは、長きにわたって降り積もった鉄の錆びた匂いと、甘ったるく腐敗した得体の知れない死臭が、底なしの沼から湧き出すようにとめどなく這い上がってきている。呼吸をするたびに、そのひどく淀んだ空気が肺の奥深くにまで侵食し、細胞のひとかけらまでもを死の気配で汚染していくようだった。
ふと見上げた空には、本来あるべき青色も、太陽も、雲一つすら存在しなかった。
視界を覆い尽くしていたのは、どす黒く塗り潰された虚無の暗闇と、そこに絡みつくように広がる血のように赤い光の網目だった。毒々しく脈打つ赤い光の筋は、まるで宇宙そのものに張り巡らされた巨大な血管のようだ。それは規則的に明滅を繰り返し、この世界全体が何らかの悍ましい巨大生命体の胎内であることを示唆しているかのようで、吐き気を催すほどの圧迫感を持って空を支配していた。
そして、その狂気的な光の中央には、万物を睥睨する「巨大な目」のような形が浮かび上がり、ただじっと、無機質にこちらを見下ろしている。
その絶対的な絶望の世界で、一人の男が目を覚ました。
全身の骨が軋むような鈍い痛みに顔をしかめ、男はひび割れたコンクリートの破片の上で、ゆっくりと身を起こした。
重力がおかしかった。体がひどく軽く、まるで濃密な泥水の中に深々と沈んでいるかのように足元が覚束ない。指先を動かそうとしても、自分の意思とは別の時間が流れているように、ひどく遅く、鈍い。
いや、それ以上に不可解なのは「自分自身の感覚」だった。
己が誰であるのか。今まで何をしていたのか。なぜ、こんな地獄のような場所に一人で倒れていたのか。
記憶の糸を手繰り寄せようとしても、思考は濃い霧に包まれたように白濁し、何も掴むことができない。己の肉体の輪郭すらも酷く曖昧に感じられる。自分がこれまで生きてきた歴史、喜びや悲しみといった感情の積み重ね、そうした人間を人間たらしめる核のようなものが、そっくりそのまま抜け落ちている。まるで、たった今この瞬間に、泥を捏ねて無理やり作り出されたばかりの紛い物の生命であるかのような、自分がただの空っぽの器に過ぎないという強烈な違和感と喪失感が、男の内側で底なしの黒い渦を巻いていた。
ふらつく足でなんとか立ち上がった男は、視線を前に向け――不意に、息を呑んだ。
数十メートル先の瓦礫の頂に、ひとりの少女が立っていたのだ。
歳は十代半ばほどだろうか。彼女は見たこともないような、一点の染みもない純白のワンピースを着ていた。その白さは、この血と灰と死臭に塗れた崩壊の世界において、あまりにも異質で、網膜を焼くほどに鮮烈だった。灰色の背景から切り取られたように、彼女の存在だけが奇妙なほどはっきりとした輪郭を持っている。
風など吹いていないはずなのに、彼女の白いワンピースの裾がふわりと揺れた。
少女は静かにこちらを見つめている。透き通るような琥珀色の瞳。
なぜか、猛烈に胸が締め付けられた。
彼女を知っている。いや、知らなければならない。彼女をたった一人で、こんな悍ましくおぞましい場所に立たせておいてはいけない。
男の内に底から湧き上がってきたのは、理屈や失われた記憶を超越した、強迫観念にも似た激しい焦燥だった。
その時だった。
『――お願い』
それは、鼓膜を通した音ではなかった。
少女の小さな唇は、微塵も動いていない。しかし、男の頭蓋の奥底で、静寂の洞窟に澄んだ水滴が落ちるような声が、はっきりと、そして残酷なまでに鮮明に響いたのだ。
『私を』
ビクリ、と男の肩が跳ねる。
声は止まない。男の脳髄の最も柔らかく脆い部分に直接触れ、撫で回すように、その悲痛な響きは何度も、何度も、ひたすらに反復され始めた。
波のようにひたひたと押し寄せるその声には、神への切実な祈りと、逃れられない呪縛と、そして身を焦がすような深い愛情に似た感情が、混然一体となって溶け込んでいた。
やめてくれ。そんな悲しい声を出さないでくれ。
男は弾かれたように彼女へと手を伸ばし、瓦礫の山を踏み越えて、ふらつく足で一歩を踏み出そうとした。
しかし、その一歩を踏み出した、まさにその瞬間だった。
『お願い、私を■■■て』
『約束だよ』
視界が、ぐにゃりと奇妙な角度に歪んだ。
頭蓋の奥で何かが弾け飛ぶような鋭い痛みが爆発し、空へ向かって伸ばした指先から、急速に生命の熱が奪われていく。網膜に焼き付いていた世界の色が急速に色褪せ、どす黒い闇が足元から巨大な口を開けて這い上がってきた。
鮮烈だった少女の姿が、抗う間もなく闇に呑まれて見えなくなる。手を伸ばしたまま、男の体は糸の切れた操り人形のように、何の抵抗もできずに崩れ落ちた。
重力の概念すら失われた、完全なる無の空間へと放り出される感覚。落下していく意識の底で、少女の悲痛な残響だけを固く抱きしめながら、男は瞬く間に深い暗黒の底へと沈んでいった。
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