第2話:出立
工場地帯の喧騒と違い、三河の住宅街は意外にも静かだ。『住宅地につき、お静かに通行願います』――昭和の遺物、町内会の建て看板が効果虚しく赤錆を浮かべ朽ち果てている。
「ブォォォォォン!!」…ビギーのエンジン音が住宅街の平穏を乱し、近隣住民がカーテンの隙間から「何だあれは……」と困惑した目で覗いている…!
『貴様ッ! 見ているなッ!? イカン!想定外のプレッシャーだッ!…回避をッ!!』
回避を促そうと口を開いた瞬間、致命的なバグを抱えているビギーのAIが提案する。
「マスター! 隣接のウエスタンテール市ワンカラー町産鰻を絞って、その上に伝説のペガサスの肉のエキスをトッピングした『ペガサススーパー鰻風味牛丼Mix盛』が食べられる店を見つけたよ! 1.2キロ先、ガテン系の聖地だよ!」
「ぺ、ペガサス……? 鰻……?」
脳内には、黄金に輝く丼のビジョンが浮かんだ。
ビギーのハルシネーション(幻覚)は、高級食材を与えられ続けた世間知らずの少年にとって「真実」に見えたのだ。
「よ、よし、そこだ。……そこへ、行こうっ ……!」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
到着したのは、当初予定していた小綺麗なオレンジの看板のチェーン店ではなかった。
国道沿い、大型トラックがひっきりなしに通り過ぎる埃っぽい場所に佇む、「タウンコーナーショップ」。看板は同じオレンジだが、入り口には「現場作業員以外お断り!」と言わんばかりの威圧感が漂っている。
「行くよマスター、しっかり掴まってて!ブォォォォォン!!」
誇らしげに排気ガスを吐き出しながら、ビギーが店の自動ドアへと突っ込もうとしたその時。
「おい、ちょっと待ってくれや兄ちゃん!」
店内から、首に使い古したタオルを巻いた、筋骨隆々の店員が飛び出してきた。
「……あ、え……そ、その……」
ビギーの背中で硬直した。
「いくらなんでも、店内に重機の持ち込みはご遠慮願いますよ!!」
「……え……?」
『重機だとォッ!? 貴様の目は節穴かッ! これは未来を担う、俺の誇り高き相棒……パパの……いや、俺のビギーだッ! 誰がロードローラーだッ! この機能美が分からんのかッ!!』
「これ、AI……あの…えっと…」
「AIだか何だか知らねえが、音がうるせえしガス臭いんだよ! 他の客が飯食ってんだ、外に繋いどいてくれ!」
結局、自由の象徴であったビギーは、店の外にある錆びた電柱に、まるで調教された飼い犬のようにリードで繋がれることになった。
「マスター、ボクを置いていくの!? 」
「!? …すッ…すまんッ…!!だが、ここで帰るわけには…!」
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悲痛なクラクションを背に、足を引きずりながら、一人で店内の「戦場」へと踏み込んだ。そこには、昼休みを戦う屈強な男たちが、食券機の前に列を作っている。一人、また一人と、無骨な指でボタンを連打していく。
『次は、僕の番だ。あってるよな?さっきのオジサンを覗いて学習したぞ!よし!オペレーション・シミュレーションは完璧だ!!
……来た。いよいよだ。俺の人生初の、自力での注文ッ! いでよ、ペガサス!俺をその翼で自由の高みへと連れて行けッ!』
「……は?」
だが、食券機を見つめた瞳から、光が消えた……。
ボタンには「鶏とりトリオ定食」「豚 デモ生姜焼き定食」「敵に味噌かつ定食」……。どこを探しても、ペガサスの文字は、一文字たりとも存在しなかったのである!!
「おい、どうした…?」
後ろに並んだ、ニッカポッカ姿の男が苛立ちを露わにした。
「!!!……えっ、……あ!!…うぅ…」
三河の労働者たちの胃袋を支える「タウンコーナーショップ」の店内。何も出来ず、油ぎった食券機の前に立ち尽くしている僕。背後には、昼休憩の貴重な1分1秒を惜しむ、日焼けした屈強な男たちが列をなしている。
『な、なにィッ! ないッ! どこを探しても“ペガサス”がいないッ! ビギーッ、貴様ァーッ! 嘘を教えやがったなッ! この俺に、実在もしない幻獣を注文させようとしたのかッ! クソがァーッ!』
脳内では、ビギーをスクラップにする勢いで荒れ狂っているが、現実は非情だ。食券機のボタンには「豚汁ールうどん定食」「若鶏南蛮族定食」「さばサバ系塩焼き定食」という無骨なフォントが並ぶのみ。
「おーい、兄ちゃん。早くしてくれよ。昼休み終わっちまうよぉ」
すぐ後ろに並んだ、首の太さが丸太のような男が、ドスの利いた声で急かす。
「あ……そ、その……えっと……」
冷や汗が、色白の頬を伝い落ちる。コミュ障の僕にとって、見知らぬ男からの催促は死の宣告に等しい。視界が白濁し、足元の障害者手帳がポケットの中で震えている気がした。
『待てッ! 待つんだッ! 俺は今、最適解を探しているッ! 落ち着けッ、この状況……パパならどうする?……いや、パパなら店ごと買い取って、全メニューをペガサスに変えさせるだろうが、今の俺は自立を目指す一人の男だッ! ……クソッ! 指が、指が動かんッ!』
「……あ、あの……う、牛……」
店員が厨房から、怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「おい、決まってねえなら、後ろの奴に譲ってもらえるか」
屈辱。
21年間、蝶よ花よと甘やかされた僕が、今、1杯の牛丼すら注文できずに、社会の荒波に飲み込まれようとしていた――




