5 学園生活に青春はない
――あれから十年が過ぎた。
フェリクス様と私は、貴族が通う学園に共に入学し、気づけば卒業まであと少しとなっていた。
「おはよう、プリムローズ嬢」
「おはようございます、フェリクス様」
教室に入る手前の廊下でフェリクス様にばったり出会い、朝の挨拶を交わす。
私の身長は平均より高いのだが、それでも長身のフェリクス様を見上げる形になる。
「妃教育の仕上げの時期だから大変だろう。無理はしていない?」
「ええ、何とかこなしております⋯⋯お気遣いありがとうございます」
「困ったことがあったら遠慮なく言って」
私が「はい」と小さく頷くと、フェリクス様は爽やかな笑みを浮かべて隣の教室に入っていった。
婚約してからはお互いに「フェリクス様」「プリムローズ嬢」と呼び合っているが、二人の距離は縮まったとは言えない。むしろ離れていっている気さえする。
王家から付けられた教育係のタチアナ女史が『婚約者との適切な距離』について口うるさく指導してくる上に、王太子妃教育が多忙を極めているので、婚約者とゆっくり親交を深める時間なんて全くない。
王太子妃教育は、学ぶ範囲がとにかく広い。
教養、語学、芸術、ダンス、世界各国の歴史と文化⋯⋯勉強の合間には慈善活動、婚約者として公務に参加することもある。
特に語学に費やす時間は膨大だ。
世界三十カ国の言語を全て習得せよ、だなんて本気で言っているのかしら。
確かに大国や同盟国との通訳無しの交流はメリットが大きいだろう。
しかしマイナーな言語は、挨拶の言葉だけ覚えて、あとは通訳を介せば事足りるのではないだろうか。
王族は本当に皆マスターしているのか疑いたくもなるが、私に拒否権はないので粛々と勉学に励む。
ちなみにフェリクス様は十三歳で世界制覇したらしい。頭の中に辞書が入っていると仰ってたけれど、フェリクス様の頭の中って一体どうなっているのかしら。
現在、私は二十七カ国の言語を習得している。結婚までに残り三カ国、何とか間に合わせなければ。
◇◇◇
学園での一日を終えて帰宅すると、侍女のアンヌが出迎えてくれた。
「お嬢様、本日もお疲れ様でございました。湯あみの準備ができています。さあどうぞ!」
「ありがとう、アンヌ」
私は浴室に向かいながら、今日一日の出来事を思い返していた。
(今日はフェリクス様と久しぶりにお話しできたわ!)
フェリクス様とは学園ではクラスが違うため、今日のように偶然居合わせなければ、丸一日顔を見ないことも珍しくはない。
せめて手紙だけでもと思い、月に一度はフェリクス様あてに便箋五枚にも及ぶ大作を送っている。王家の検閲が入るため、愛だの恋だの恥ずかしいことはもちろん書けないが。
フェリクス様の爽やかな笑顔に、廊下にいた女子生徒達が黄色い歓声をあげていたわね。
「歓声をあげる気持ち、すごくわかるわ。あの笑顔は反則よね」
フェリクス様は元々美しい王子様だったが、成長と共に男らしい色気を帯びた魅力的な男性になった。
輝く金髪にサファイアの煌めく瞳で微笑む彼の破壊力は凄まじい。
うっかり直視すると本気で心臓が止まるかもしれない。なので最近は会話中も少し視線を逸らしている。
それでも耳から入ってくるフェリクス様の、艶のある低くて甘い声からは逃れることができず、私は平静を保つことに必死になっているのだ。
私は湯に浸かり、ふと湯舟の中の自分の身体を見おろした。
成長と共にどんどん女性らしい体つきになった。
特に胸がこんなに成長するなんて。もっと慎ましやかな方が良いのに、などと詮無いことを考える。
湯あみを終えると、アンヌが香油を塗りこみながら髪を乾かしてくれる。
「旦那様と若様は、今日からしばらく宮廷の執務室に泊まり込むことになるそうです。補正予算がどうとか仰っていて」
「そうなのね。激務でお体を壊さないといいけれど。そうだわ、疲労回復にきくハーブティーを差し入れしましょうか。ローズヒップとカモミールの茶葉を準備しておいてくれる?」
「かしこまりました。お嬢様もお疲れでしょうから、あとでお淹れしますね」
「いつもありがとう、アンヌ」
国の中枢で働いている父とルシアンは、常に膨大な量の執務に追われている。
お父様達も頑張っているのだから、私だけ弱音を吐いている場合ではないわ。
一人で夕食を終えて自室に戻り、今日の授業の復習をする。
来月には、王太子妃教育の総仕上げの確認テストもあるから、その対策にも取りかかりたいし。
ああそうだった、残り三カ国の言語の勉強も進めなくては。
「今日はジャシル語の文法をおさらいしましょう」
アンヌが淹れてくれたカモミールティーを口にしながら、夜遅くまで机に向かう。
こうして私の毎日はあっという間に過ぎていくのだ。
♢♢♢
小鳥のさえずりで目が覚めて、カーテンを開けると光が差し込んできた。
寝不足気味の目には、太陽の光が堪えるわ⋯⋯
学園の制服に袖を通し、アンヌに髪を結ってもらうため鏡台の椅子に腰掛けた。
「お嬢様、今日も味気ないひっつめ髪にするのですか? せっかく綺麗な御髪なのにもったいないですよ。たまには可愛らしくアレンジしましょうか?」
アンヌがブラシをぐっと握りしめ、鏡越しに声をかけてきた。
「いいのよアンヌ。そんなことしたら浮ついてると思われてしまうわ。品行方正で慎み深い淑女になるには、お洒落なんかに気を取られてはいけないのよ」
私は目を伏せて、左右に首を振った。
「お嬢様、淑女を通り越して、もはや修道女の域に達してますよ⋯⋯」
他にもなにか言いたげなアンヌだが、結局いつものように髪を一つにまとめてきつく結んでくれた。
タチアナ女史は、眼鏡の端を持ち上げながら言うのだ。
「淑女というもの、異性に隙を見せてはいけません! 華美な化粧や、肌を見せるような服など以ての外です! 王族の婚約者たるもの、品行方正で慎み深い淑女であらねばなりません!」
八歳の誕生日に従兄弟から贈られた赤いリボンで髪を結い、軽くリップをつけて王宮に行った日には小一時間お小言をもらった。
そうしてタチアナ女史の教えを十年間も繰り返し聞かされてきた私は、『お洒落イコール悪!』の精神がすっかり出来上がっていた。
鏡に映っているのは、融通の効かない生真面目な性格で、地味な身なりの淑女。
こんな面白味のない女のことを、フェリクス様はどう思っているのだろう。
いつも優しく接してくださるけど、私にだけでなく皆に公平に優しいもの。女性として意識されているとは到底思えない。私が選ばれたのは、やっぱり公爵令嬢という身分故でしょうね。
せめて立派な王太子妃となって、フェリクス様のお役に立ちたい。そのためには、タチアナ女史の教えを守らなければならない。
「フェリクス様の隣に立つにふさわしい女性になりたいの」
鏡に映るアンヌと自分に向かって、私はぽつりとつぶやいた。




