1 プロローグ
「私のロゼ。君を閉じ込めてしまいたくなるよ」
目の前の美しい彼はそう言った。
こちらを射貫くサファイアの瞳には、今までは見たことがない仄暗い色が浮かんでいた。
♢♢♢
「うーん、よく眠ったわ」
私はベッドから身を起こした。見渡すと、部屋には誰もいない。
薔薇の刺繍入りのカーテンは、隙間なく閉められている。既に陽は落ちているのだろう。
「そうだった、思い出したのだったわ」
あの時、学園の階段から勢いよく転げ落ちた。そして思い出したのだ、前世の記憶を。
「ここは前世で読んだ恋愛小説そのままの世界なのね。そしてわたくしは悪役令嬢のプリムローズ」
溜息をつきながら立ち上がる。
「これはいわゆる異世界転生という現象なのかしら」
銀細工で縁どられた大きな鏡を覗き込む。
そこに映っているのは、人形のように美しく整った顔だった。
エメラルドのように煌めく大きな瞳。すっと通った鼻梁。瑞々しい唇と頬は薄紅色に染まっている。
ゆるく波打つピンクブロンドの髪は腰まで伸びて、絹糸のように輝いている。
肌は陶器のように白く滑らかで、細い腰と豊かな胸が女性的な魅力を主張している。
「完璧だわ。プリムローズ」
鏡に映る自分に向かってつぶやく。
「なぜ、あんな教えに馬鹿正直に従っていたのかしらね」
私は夜着の上に大判のストールを羽織ると、寝室と続き部屋になっている私室へ移動した。
淡い色を基調にしたプリムローズの私室には、品のよい家具が置かれ、天井には小ぶりだが優美なシャンデリアが光を灯していた。
部屋の中央にあるソファへ腰掛けて、呼び鈴を鳴らす。
すぐに控えめなノックの音がした。
「どうぞ」
短く返事をすると、侍女のアンヌが部屋に入ってきた。
「お嬢様、お目覚めですか! 二日間も眠っていらしたのですよ」
アンヌは心底ほっとした表情を浮かべながら水差しを手に取った。そしてグラスに水を注ぐと、ソファに腰掛けている私に手渡してくれた。
アンヌは五年前から我が公爵家に仕えてくれている。黒目黒髪の小柄な彼女はまだ若いが、物事の段取りが上手く、いつも手際よく仕事をこなしてくれる。性格も朗らかでとても頼もしい侍女だ。
「心配かけたわね、アンヌ」
私はグラスを傾けて喉を潤し、ほっと息をつく。
アンヌが小さく首を横に振った。肩上で揃えられた黒髪がさらりと揺れる。
「お医者様は異常はないと仰っていました。なのにお嬢様が一向に目を覚まさないので、旦那様も若様もたいそう心配しておられたんですよ。旦那様にご報告にいってまいりますね!」
アンヌが慌ただしく部屋を出ていき、しばらくして勢いよく扉が開いた。
父のレオンが早足で近づいてくる。
「ロゼ、目覚めたのか! どこか痛むところは? 顔色は悪くはなさそうだね」
父は私の頬を両手で包むと、僅かな異変も見逃さないと言わんばかりに私を見つめる。
私も父の顔を見つめ返した。
プリムローズの父レオンは、アメティスト公爵家の当主であり、この国の宰相でもある。
銀髪紫眼の父は四十歳とは思えないほど若々しく、彫像のように美しい相貌をしている。社交界では『麗月の公爵』と呼ばれ、その姿に貴婦人達のみならず、私と同年代の若い令嬢達さえ恍惚とした表情を浮かべるのだ。
常に冷静沈着な父だが、いつもきっちり整えている銀の前髪は無造作に乱れ、額にうっすら汗が滲んでいる。おそらく広い屋敷を全力で駆けてきたのだろう。
父に続いて、二歳上の兄ルシアンが現れた。
「ロゼ、もう起きてもいいのか?」
私の顔を覗き込むアメジストの瞳には、憂慮が宿っている。
兄のルシアンは、文官として宮廷勤めをしている。父ゆずりの銀髪紫眼の美形の青年だ。
クールで気怠げな雰囲気の兄は、巷で『紫水晶の貴公子』という、父に負けず劣らずの気恥ずかしい異名で呼ばれている。
公爵家嫡男という身分と美貌を兼ね備えた兄には、大量の釣書が届くが未だに婚約者はいない。
「階段から落ちるなんてロゼらしくないな。急いでたの? それとも動揺するような何かがあった?」
私はルシアンの鋭い問いには答えず、にっこり微笑んだ。
「お父様、お兄様、ご心配をおかけしました。わたくしはこのとおり大丈夫よ」
私は二人を安心させるために、ゆっくり立ち上がってみせる。二人の顔に安堵の色が浮かんだ。
「頭を強く打ったんだ、まだ横になっていなさい。明日また医者に診てもらおう。念のため学園はしばらく休みなさい」
「それから⋯⋯」と、父は案ずるように私の肩に手を置いた。
「フェリクス殿下がとても心配なさっていた。見舞いの申し出があったが、意識が戻るまでは待ってくれと伝えてある。体調が落ち着いたら一度手紙を書きなさい」
「はい、お父様」
私は頷きながら、婚約者であるフェリクス様のことを頭に思い浮かべた。




