それぞれの〈talina〉
時間は、音もなく流れていった。
痛みを抱えたまま。
それでも、確かに、前へ。
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ひかりは、疲れていた。
身体だけではない。
心も、感情も、すり減っていた。
不妊治療という言葉の裏に、これほどの重さがあることを、始める前の彼女は知らなかった。
通院。
注射。
採血。
結果待ち。
期待は、何度も形を持ち、そのたびに、失われた。
着床しても、流産する。
命が宿ったと信じた瞬間に、奪われる。
それを、繰り返した。
タイミング法、人工授精、体外受精。
医師の判断で段階を踏む。
だが、ひかりと波多野は、最初から顕微授精を勧められた。
困難さの現実だった。
仕事を続けながらの治療は、過酷だった。
身体は悲鳴を上げ、心は少しずつ摩耗していく。
それでも、やめなかった。
理由は、明確ではなかった。
ただ——隣に、波多野がいた。
彼は、決して急かさなかった。
結果に意味を与えず、希望を押し付けもしなかった。
ただ、黙って、同じ場所に立っていた。
「やめてもいい」
その言葉を、何度も聞いた。
だからこそ、ひかりは、続けられた。
⸻
——これで、最後にしよう。
何度目かの失敗のあと、ひかりは、そう決めた。
もし駄目なら、諦める。
二人で生きる人生を、選び直す。
覚悟を抱えたまま臨んだ、最後の移植。
そして。
妊娠は、安定期を迎えた。
「順調です」
医師のその一言に、ひかりは、その場で泣いた。
初めてだった。
希望を、疑わずに受け取れたのは。
⸻
出産の日。
長い時間の果てに、命は、確かにそこにあった。
泣き声が、二つ。
小さく、力強く、世界に触れようとする音。
——双子だった。
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退院の日。
病院のロビーに、遥と咲良がいた。
「おめでとう」
遥の声は、穏やかだった。
ひかりは、胸の奥に、静かな温度を感じた。
「幸せになって」
「……今まで、ありがとう」
それは、別れではなかった。
手放すための言葉だった。
「これからは」
「あなたの人生を、あなたらしく歩いて」
ひかりは、深く頷いた。
「うん」
遥は、赤ん坊を覗き込む。
「名前は?」
「晴未と、来都です」
ひかりは、微笑んだ。
「万博で、波多野さんと出会って」
「私の〈talina〉が、始まりました」
talina——フィンランド語で《物語》
「万博で未来ちゃんに会って、人生が変わった」
「だから……どうしても、この名前をつけたかったんです」
晴れ渡る未来。
そして、やって来る希望の都市。
遥は、目を細めた。
⸻
さらに、時間は流れた。
波多野とひかりの家。
新しいマイホームでの、ささやかなホームパーティ。
遥も、咲良も、村山社長もいた。
「春樹には、talina研究所に残ってほしかった」
村山は、グラスを傾けながら言った。
「だが……やはり、日本に留まる器じゃなかったな」
遥が、静かに応じる。
「そうですね」
「春樹は……talinaでした」
入社式で聞いた言葉。
創業者の理念。
talinaには、二つの意味がある。
一つは、物語。
それぞれが、自分の人生を紡ぐこと。
もう一つは——
足りないものを、補い合うこと。
人も、社会も、会社も。
幸せな人生を生きることが、世界を少し良くする。
それが、talina研究所の原点だった。
⸻
そのとき、テレビが映った。
海外の会場。
——ノーベル生理学・医学賞授賞式。
拍手の中、一人の日本人が立っている。
「空野春樹教授」
名前が呼ばれ、会場が揺れた。
春樹は、アメリカに渡り「T-Lab America」で結果を残し、talina研究所本社の取締役になる話を断り、医学の道を選んだ。
理由は、一つ。
未来を、救うため。
研究を重ね、難病患者の治療法を見つけた。
日本では承認に時間がかかる。
だから、アメリカに残った。
スピーチが終わり、カメラが客席を映す。
そこにいた。
涙を浮かべ、拍手を送る女性。
未来だった。
——彼女は、生きていた。
長い眠りから、目を覚ましたのだ。
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物語は、終わらない。
それぞれが、それぞれの〈talina〉を生きている。
失い。
迷い。
それでも、信じて。
足りないものを、補い合いながら。
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人生は、完成しない。
誰もが、不完全なまま、歩いていく。
だからこそ、人は出会い、手を伸ばし、物語を紡ぐ。
それぞれの〈talina〉を。
静かに。
確かに。
——今日もまた。
その物語は、続いていく。




