③空白に差し込む現実
遥が、いなくなってから、数日が過ぎていた。
最初の一日は、混乱だった。
二日目は、怒り。
三日目には、何も感じなくなった。
ひかりは、自分が思っていたよりも、静かだった。
電話は鳴らない。
メッセージも届かない。
問い詰めたい気持ちも、縋りたい衝動も、胸の奥に沈んだまま、浮かび上がってこなかった。
——終わったのだ。
理由を整理する前に、感情がそう結論づけていた。
⸻
夜。
ひとりきりの部屋は、広すぎた。
ソファに座っても、ベッドに横になっても、誰かの気配が消えた空間が、否応なく現実を突きつける。
ひかりは、自分の腹部に、無意識に手を当てた。
——欲しかった。
未来を。
形のあるものを。
誰にも奪われない、証明を。
その思考に辿り着いたとき、ひかりは、ようやく涙を流した。
⸻
数日後。
ひかりは、名の知れた不妊治療専門のクリニックを訪れていた。
清潔すぎる待合室。
抑えた照明。
雑誌のページをめくる音だけが、やけに大きく聞こえる。
波多野は、隣に座っていた。
何も言わない。
手も握らない。
だが、離れもしなかった。
⸻
検査は、淡々と進んだ。
ひかりは、自分の身体を、数値として扱われることに、思った以上の疲労を感じていた。
そして。
先に呼ばれたのは、波多野だった。
⸻
診察室のドアが開いたとき、波多野の表情は、明らかに変わっていた。
蒼白でも、取り乱してもいない。
だが、何かを、理解してしまった顔だった。
「……僕は」
声が、少しだけ、低い。
「精子が……確認できないって」
ひかりの思考が、一瞬、止まる。
「……ゼロ?」
「そう言われた」
言葉は、それ以上、続かなかった。
希望も、猶予もない。
医学的な事実だけが、そこに残された。
⸻
次に、ひかりが呼ばれる。
医師の口調は、穏やかだった。
「西園寺さんも……」
「妊娠しにくい体質です」
原因は一つではない。
ホルモン、年齢、過去のストレス。
「治療は可能です」
「ただし……」
一拍、置かれる。
「治療を進める場合」
「ご夫婦であることが、前提になります」
⸻
診察室を出たあと。
二人は、しばらく、言葉を失っていた。
結果は、あまりにも明確だった。
逃げ道も、誤魔化しもない。
ひかりは、窓の外を見ていた。
感情が追いつかず、何を考えているのか自分でも分からない。
——私は、子どもを望んではいけない人間なのか。
——それとも、望む資格すら、ないのか。
「……ごめん」
気づけば、そう口にしていた。
「私も……」
「簡単じゃないって……」
言い終える前に、言葉が崩れた。
波多野は、ひかりを見なかった。
代わりに、ゆっくりと息を吐いた。
「謝るところが、違う」
その声は、低く、静かだった。
「僕たちは」
「壊れてるわけじゃない」
ひかりは、顔を上げる。
波多野は、ひかりの方を向いた。
「僕は」
「ひかりさんと、家族を作りたいと思った」
一拍。
「子どもができるから、じゃない」
「普通だから、でもない」
言葉を選ぶように、続ける。
「できないかもしれない未来も」
「治療で、苦しむ時間も」
「それでも、一緒にいると決めた」
ひかりの喉が、震えた。
「……それは」
「優しさで言ってる?」
「違う」
即答だった。
「結果がどうであれ、僕にはひかりさんが必要だ」
波多野は、ひかりの手を取った。
強くも、弱くもない。
逃がさない、という意思だけがあった。
「ひかりさんは」
「産めなくても」
「何かを失っていても」
視線を逸らさず、言い切る。
「僕にとって、選ぶ理由しかない」
その瞬間。
ひかりの中で、何かが、音を立てて崩れた。
価値を証明し続けなければならない人生。
与えられることでしか、存在を許されない感覚。
それが、一気に、ほどけた。
「……ずるい」
声が、震える。
「そんな言い方……」
涙が、止まらなかった。
嗚咽を抑えようとしても、できない。
「……私」
「ずっと……」
「誰かの役に立たないと……」
波多野は、そっと抱き寄せた。
「もう、十分だ」
耳元で、低く言う。
「今度は」
「僕の人生に、いてくれ」
ひかりは、声を上げて泣いた。
取り繕うことも、強がることもできず、ただ、感情のままに。
「……うん……」
何度も、何度も、頷く。
「結婚しよう」
波多野は、静かに言った。
「条件じゃない」
「治療のためでもない」
一拍、置いて。
「ひかりさんと生きたいからだ」
その言葉に。
ひかりは、完全に、崩れ落ちた。
ひかりは、波多野を見た。
この人は、裏切らない。
感情で支配しない。
逃げない。
——心の空白を、無理に埋めようとしないでくれる人だと、分かっていた。
「……うん」
ひかりは、頷いた。
「結婚しよう」
これほどまでに、選ばれたと感じたことは、人生で一度もなかった。
ひかりは、初めて、自分の足で選んだのだと思った。
誰かに縋るのでも、誰かの代わりになるのでもなく。
——自分の人生として。
新しい現実が、ゆっくりと、根を下ろし始めていた。




