春樹の未来③
夢洲の空は、まるで真夏の鏡のように光を跳ね返していた。
大阪・関西万博会場には各国の旗が揺れ、世界中から訪れた人の熱気で溢れていた。
空野春樹は白いシャツの袖をまくり、英語で外国人記者へユーモアを混ぜて説明している。
記者達は微笑み、流暢な英語に感嘆していた。
その姿を少し離れた場所から見ていたのが、西園寺ひかり(さいおんじ・ひかり)。
社内でも“憧れの女性”として名を知られる。
美人で、クールで、面倒見が良い。
若い社員がミスをすれば、すぐにフォローに入る頼れる存在。
誰にでも公平で、しかし仕事には一切の妥協を許さない。
だからこそ、同じ完璧主義者の春樹に、いつの間にか惹かれていた。
……午後の熱気が最高潮を迎えたころ、隣のブースで突然、ざわめきが起きた。
大型ディスプレイが暗転し、外国人客がざわめく。
「えっ、電源……入らない?」
首から下げた関係者AD証が揺れていた。
そこにはローマ字で「MIRAI ARAGAKI」と印字され、可愛らしい笑顔の写真が貼られている。
焦っているのは、新垣未来という若い女性スタッフだった。
Talina研究所の主要な取引先に勤める新人で、汗をぬぐいながら何度もスイッチを押している。
その様子に気づいた春樹が、迷いなく歩み寄った。
「もしよければ、少し見せてもらっても?」
未来が驚いたように振り向く。
「は、はい……お願いします!」
春樹は数秒でケーブルの断線とリレーの誤作動を見抜き、工具を借りて修復した。
わずか数分でパネルが光り、その様子を見ていた人々から歓声と拍手が起こる。
未来は目を丸くし、胸の前で手を合わせた。
「すごい……ありがとうございます! 本当に助かりました」
「困った時はお互い様です。大変だけど、おもてなし頑張って下さい」
「はいっ!」
春樹が去っていく背中を、未来はしばらく見送っていた。
陽光の中で、その白いシャツがまぶしかった。
数日後、会場スタッフ控室で偶然再会した。
「この前は本当に助かりました」
未来が頭を下げると、春樹は小さく笑って言った。
「無事に動いてるみたいで何よりです」
そして未来が、少し迷いながら尋ねた。
「空野さんって、通期パス……持ってますか?」
「え? いや、AD証(関係者証)があるから」
「じゃあ、お仕事以外では中に入らないんですか?」
「うーん、そうなるかな」
未来は一瞬、寂しそうに笑った。
「せっかく世界が集まってるのに、もったいないです」
「新垣さんは行くんですか?」
「はい。私は通期パスを持っています。
お休みの日も、一般の人の目でこの場所を見たくて」
その真っ直ぐな言葉に、春樹は少し驚いた。
完璧主義で冷静な彼の胸に、ほんのわずかな温かさが差し込む。
未来は小さく息を整えて言った。
「今度、お昼……ご一緒してもいいですか? お礼がしたいんです」
春樹はプライベートでは同僚とは極力関わらないが仕事となれば別だ。
ましてや未来の勤める会社はTalina研究所の重要な取引先の一つだ。
閉幕までまだ期間も長い。
断れば角が立つ。
今後の関係にも悪影響を及ぼすかも知れない。
「僕でよければ」春樹に断わる理由は無かった。
その瞬間、彼女の瞳が柔らかく光を宿した。
……約束の日、ふたりの“最初の休日”が生まれた。
そしてその日、夢洲駅。
人々の列に並びながら、春樹はぽつりとつぶやいた。
「一般入場って、こんなに並ぶんだな……」
未来は振り返って微笑んだ。
「でも、この“待つ時間”も、思い出になりますよ」
彼女から渡されていた万博チケット—
プリントアウトした電子チケットのデザインを改めて見て、春樹は違和感を感じた。
以前、パビリオンで対応した障害を持つ来場者の特別チケットと似ていたからだ。
春樹の胸に、何かが刺さる。
だが、何も聞けない。
「行きましょう、空野さん!」
その笑顔に、春樹はふと思った。
……この人の笑顔を見ると不思議と心が安らぐ。
それが自分の、まだ知らなかった“心の揺れ”だった。




