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②それでも、信じていた証明(後)

 白い天井だった。


 視界に入った瞬間、春樹は息を止めた。

 病室という場所の、この天井だけは、どうしても慣れなかった。


 細く、頼りない呼吸。

 規則正しく鳴っているはずの電子音は、どこか遠く、現実感を失っている。


 未来は、ベッドに横たわっていた。


 眠っているだけだ。

 そう思いたかった。


 だが、そうではないと、身体のほうが先に理解してしまう。

 呼びかけに応えない静けさは、眠りとは違う。


 ——あまりにも、静かすぎた。



「……覚悟してください」


 廊下で告げられた医師の言葉は、簡潔だった。


 可能性の話はない。

 数字も、時間も、説明もない。


 ただ一つ。


 それだけが、現実として、突きつけられた。



 処置室の外。

 春樹は、壁に背を預けるようにして立っていた。


 ポケットに入れた手が、一枚の封筒に触れる。


 ——婚姻届。


 いつか、必ず渡すと決めていた紙だった。

 未来が笑う顔も、驚く顔も、何度も想像してきた。


 必要な書類は全部揃えてある。


 だが。


 未来の名前の欄だけが、ぽっかりと、空白のまま残っている。


 ——まだ、生きている。

 ——それなのに、書けない。


 生きているからこそ、書けない。

 その矛盾が、胸を締めつけた。


 証人欄。

 そこには、すでに二つの名前が並んでいた。


 比嘉涼子。

 そして——遥。


 この紙は、もう、個人的な願いではない。

 多くの人間の覚悟を背負った、現実だった。



 そのとき。


 奇跡は、本当に、一瞬だけ起きた。


「……」


 微かな音に、春樹は顔を上げる。


 未来が、目を開けていた。


 焦点は定まらず、世界を見ているというより、何かを探しているような目。


 けれど。


 春樹を捉えた瞬間だけ、確かに、そこに“意思”が戻った。


「……やっと……会えたね……」


 声は、風のようにか細い。


 春樹は、ベッドのそばに駆け寄り、婚姻届を、彼女の視界に入る位置に掲げた。


「……ここだけ、空いてる」

「未来の名前だけだ」


 未来は、ほんのわずかに、笑った。


 それは、安堵だった。

 ようやく辿り着いたという、顔だった。


「……書かせて……」


 ペンを握る指に、力はない。

 それでも。


 一文字ずつ。

 自分がここにいることを、確かめるように。


 ——新垣 未来。


 最後の一画を書き終えた瞬間、ペンは、音もなく、床に落ちた。


 未来は、そのまま、意識を失った。



 その夜。


 婚姻届は、役場に提出された。


 形式は、すべて、整った。


 ——二人は、夫婦になった。


 それが、どれほど残酷で、どれほど優しい事実なのか。


 この時点では、誰にも、分からなかった。



 ——そして。


 再び、奇跡が起きる。


 未来は、もう一度だけ、目を開けた。


 それが、最後の会話だった。


「……春樹さん……」


 春樹は、彼女の手を、強く握る。


「婚姻届、出した」

「俺たち……夫婦だ」


 未来の目から、涙が、静かにこぼれた。


「……ありがとう……」


 それだけ言って。


 未来は、再び、目を閉じた。



 未来は、もう、目を開けなかった。


「……嘘だろ……」


 春樹の声が、掠れる。


「最低でも、二十年は生きるって……」

「……まだ、十年しか、生きてないぞ……」


 返事は、ない。



 医師は、何も言わなかった。


 希望も、絶望も、与えない。



 春樹は、未来の手を離さなかった。


 信じていた。

 最後まで。


 ——それでも、信じていた証明は、ここに、残されたままだった。

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