表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
78/82

①それでも、信じていた証明(前)

 病院の夜は、現実感を奪う。


 白すぎる廊下。

 足音を吸い込む床。

 空調の音だけが、一定のリズムで耳に残る。


 春樹は、立ち止まっていた。


 ここに来る理由が、分からない。

 来る資格があるとも、思えなかった。


 ——いや。


 本当は、分かっていた。


 未来と、突然、連絡が途絶えた理由。

 あれほど完全に、痕跡もなく遮断するなど、偶然では起こらない。


 確信はない。

 証拠もない。


 だが——

 思い浮かぶ顔は、一つしかなかった。


 遥。


 自分を恨んでいた人間。

 そして、恨まれて当然だと、春樹自身が思っていた相手。


 だから、追及しなかった。

 気づいていなかったわけではない。

 気づいていて、敢えて踏み込まなかった。


 もし、それが遥のしたことなら。

 自分には、責める資格などない。


 そう思っていた。


「……どうして、ここに」


 声は、低く、硬かった。


 病室の前。

 そこに立っていたのは、遥だった。


 数年ぶりに見る姿は、記憶の中よりも、静かだった。

 鋭さは、残っている。

 だが、かつての切迫した憎悪は、もうない。


「来るな、と言われても……」


 短く、それだけを言う。


 春樹は、視線を逸らさなかった。


 その横で、比嘉涼子が一歩前に出る。


「春樹さん……」

「伝えなければいけないことがあります」


 その声には、覚悟があった。


「未来の治療」

「今の病室」

「すべて、匿名の支援が入っています」


 春樹の呼吸が、わずかに止まる。


「特定疾患なので、経済面で、大部屋なら問題はありませんでした」

「でも……」

「精神的な負担を減らしたい、という理由で」


 涼子は、視線を遥に向けた。


「すべて、遥さんが手配していました」


 春樹は、言葉を失った。


 怒りは湧かなかった。

 驚きも、不思議とない。


 ——やはり、そうか。


 胸の奥で、長く絡まっていた感情が、ほどけていく。


「贖罪よ」


 遥は、淡々と口にした。


「恨んでいたのは事実よ」

「だけど、それは本心じゃなかった」


 視線を落とし、続ける。


「壊れた自分が」

「どこかに、理由を求めていただけ……」


 春樹は、静かに聞いていた。


「春樹は、悪くない」

 遥は、はっきりと言った。


「誰かを悪者にしなければ、自分を保てなかった」

「それだけだった」


 沈黙が落ちる。


 病室の中から、規則正しい電子音が響いていた。

 未来は、まだ、生きている。


 春樹は、鞄から、一枚の書類を取り出した。


 ——婚姻届。


「証人が、二人必要だ」


 書類を見つめながら、淡々と告げる。


「一人は、比嘉さんにお願いしたい」

「未来の人生を、ずっと知っている」


 涼子は、黙って頷いた。


 春樹は、視線を上げ、遥を見る。


「もう一人……」

「恨みがあり」

「因縁があり」

「それでも、ここに立っている人間がいるなら」


 一拍、置く。


「それ以上の証人はいない」


 遥の喉が、小さく動いた。


「……それで、いいの?」


「いい」


 即答だった。


「和解というのは」

「忘れることじゃない」

「それでも、前に進むと決めることだ」


 春樹は、ペンを差し出した。


「俺は、逃げない」


 遥は、しばらくペンを見つめていたが——

 やがて、静かに受け取った。


 署名する指先は、震えていなかった。


 名前が、証人欄に記される。


 その瞬間、過去は裁かれたのではなく、受け入れられたのだと、春樹は思った。


 病室のドアの向こうで、未来の心音が、確かに鳴っている。


 まだ、終わっていない。


 それでも。


 信じていた。


 この世界が、もう一度、繋がることを。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ