①それでも、信じていた証明(前)
病院の夜は、現実感を奪う。
白すぎる廊下。
足音を吸い込む床。
空調の音だけが、一定のリズムで耳に残る。
春樹は、立ち止まっていた。
ここに来る理由が、分からない。
来る資格があるとも、思えなかった。
——いや。
本当は、分かっていた。
未来と、突然、連絡が途絶えた理由。
あれほど完全に、痕跡もなく遮断するなど、偶然では起こらない。
確信はない。
証拠もない。
だが——
思い浮かぶ顔は、一つしかなかった。
遥。
自分を恨んでいた人間。
そして、恨まれて当然だと、春樹自身が思っていた相手。
だから、追及しなかった。
気づいていなかったわけではない。
気づいていて、敢えて踏み込まなかった。
もし、それが遥のしたことなら。
自分には、責める資格などない。
そう思っていた。
「……どうして、ここに」
声は、低く、硬かった。
病室の前。
そこに立っていたのは、遥だった。
数年ぶりに見る姿は、記憶の中よりも、静かだった。
鋭さは、残っている。
だが、かつての切迫した憎悪は、もうない。
「来るな、と言われても……」
短く、それだけを言う。
春樹は、視線を逸らさなかった。
その横で、比嘉涼子が一歩前に出る。
「春樹さん……」
「伝えなければいけないことがあります」
その声には、覚悟があった。
「未来の治療」
「今の病室」
「すべて、匿名の支援が入っています」
春樹の呼吸が、わずかに止まる。
「特定疾患なので、経済面で、大部屋なら問題はありませんでした」
「でも……」
「精神的な負担を減らしたい、という理由で」
涼子は、視線を遥に向けた。
「すべて、遥さんが手配していました」
春樹は、言葉を失った。
怒りは湧かなかった。
驚きも、不思議とない。
——やはり、そうか。
胸の奥で、長く絡まっていた感情が、ほどけていく。
「贖罪よ」
遥は、淡々と口にした。
「恨んでいたのは事実よ」
「だけど、それは本心じゃなかった」
視線を落とし、続ける。
「壊れた自分が」
「どこかに、理由を求めていただけ……」
春樹は、静かに聞いていた。
「春樹は、悪くない」
遥は、はっきりと言った。
「誰かを悪者にしなければ、自分を保てなかった」
「それだけだった」
沈黙が落ちる。
病室の中から、規則正しい電子音が響いていた。
未来は、まだ、生きている。
春樹は、鞄から、一枚の書類を取り出した。
——婚姻届。
「証人が、二人必要だ」
書類を見つめながら、淡々と告げる。
「一人は、比嘉さんにお願いしたい」
「未来の人生を、ずっと知っている」
涼子は、黙って頷いた。
春樹は、視線を上げ、遥を見る。
「もう一人……」
「恨みがあり」
「因縁があり」
「それでも、ここに立っている人間がいるなら」
一拍、置く。
「それ以上の証人はいない」
遥の喉が、小さく動いた。
「……それで、いいの?」
「いい」
即答だった。
「和解というのは」
「忘れることじゃない」
「それでも、前に進むと決めることだ」
春樹は、ペンを差し出した。
「俺は、逃げない」
遥は、しばらくペンを見つめていたが——
やがて、静かに受け取った。
署名する指先は、震えていなかった。
名前が、証人欄に記される。
その瞬間、過去は裁かれたのではなく、受け入れられたのだと、春樹は思った。
病室のドアの向こうで、未来の心音が、確かに鳴っている。
まだ、終わっていない。
それでも。
信じていた。
この世界が、もう一度、繋がることを。




