重なり始めた輪郭④
数日が、過ぎていた。
ビジネスホテル。
終電の、その先の街。
どこにいても、眠れなかった。
ベッドに横になっても、目を閉じるたびに、別の光景が浮かぶ。
ひかりの背中。
閉まるドア。
あの夜の、決定的な違和感。
電話は、切ったまま。
通知も、見ない。
世界と、自分を、切り離すしかなかった。
⸻
それでも。
完全に遮断しきれなかったものが、ある。
⸻
スマートフォンが、震えた。
遥は、反射的に画面を伏せた。
期待してしまうことが、怖かった。
だが、数秒後。
抑えきれずに、再び手に取る。
⸻
【綾瀬 咲良】
⸻
喉が、鳴った。
待っていた。
ずっと。
清水川美香が、すべての元凶だったことは、もう知っている。
だが——
最後の一つだけが、解けていなかった。
なぜ、咲良は清水川美香を庇ったのか。
なぜ、自分が犠牲になる道を選んだのか。
遥は、その答えを、十五年、待ち続けていた。
⸻
「……もしもし」
『久しぶりやな、遥』
懐かしい声。
柔らかくて、低くて、少しだけ笑みを含んだ響き。
けれど、確実に、時間をくぐってきた声音だった。
『急で、ごめんな』
『今週の土曜な……』
『もし、時間あったらでええねんけど』
『会われへんかな』
⸻
理由は、語られなかった。
言い訳も、なかった。
ただ、“会う”という選択肢だけが、静かに差し出される。
⸻
遥は、目を閉じた。
ひかりのいない夜。
戻れなくなった部屋。
そして、十五年分の、未回収の問い。
「……分からない」
それが、精一杯だった。
『そっか』
『うん、それでええ』
咲良は、間を置いたあと、やさしく続ける。
『無理せんでな』
『考える時間、ちゃんと取って』
⸻
通話が、切れる。
静寂が、戻る。
⸻
——それからも。
連絡は、なかった。
遥は、焦らなかった。
むしろ、納得していた。
あの咲良が「一度ちゃんと話そ」と言った以上、
その“一度”は、軽い意味ではない。
⸻
理由を知ったのは、村山からだった。
「……あれから、十五年だ」
ふとした雑談のように、村山は言った。
「綾瀬の娘な……」
「もう、二十二になる」
遥は、驚かなかった。
あの子は、当時七歳。
小学校に通い始めたばかりだった。
——時間は、確実に、進んでいる。
「就職してな」
「最近、一人暮らし始めたらしい」
村山は、淡々と続ける。
「引っ越しやら、手続きやら」
「全部、終わるまで」
「……自分のこと、後回しにしてたんだろう」
⸻
遥は、理解した。
咲良は、逃げていたのではない。
避けていたのでもない。
守るべきものを、すべて守り切るまで、自分の時間を、止めていただけだ。
⸻
数日後。
再び、スマートフォンが震えた。
⸻
【綾瀬 咲良】
《時間、取れるようになった?》
《土曜、梅田でええかな》
⸻
短い文面。
だが、そこに迷いはなかった。
遥は、深く息を吐く。
壊れた世界。
切れた線。
戻れない過去。
それでも——
まだ、終わっていない話がある。
⸻
土曜の午後。
人の多いカフェの奥。
窓際の席。
先に座っていたのは、咲良だった。
黒でも白でもない、落ち着いた色の服。
飾り気はないのに、不思議と目を引く。
背筋は、昔と変わらず、まっすぐだ。
目が、合う。
——その瞬間。
遥の胸が、わずかに、痛んだ。
変わっていない。
いや、むしろ、洗練されている。
落ち着いているのに、目を離せない。
柔らかいのに、芯がある。
(……四十代半ば、だよな……?)
自分は、今年で四十。
彼女は、それより、ずっと上のはずだ。
なのに。
どうして、こんなにも若く見える。
どうして、こんなにも——魅力的なんだ。
会えば、気持ちが再燃するかもしれない。
そう思っていた。
——懸念は、正しかった。
抑え込んでいたはずの感情が、一気に、胸の奥で、息を吹き返す。
⸻
「……久しぶりやな」
咲良が、先に微笑んだ。
「……ええ」
それだけで、十分だった。
十五年分の空白が、言葉を、必要としなかった。
⸻
咲良は、コーヒーに口をつけてから、静かに言う。
「……あのときな」
遥は、黙って聞いた。
「美香はな」
「うちと、ちょっと似ててん」
視線を落とし、言葉を選ぶ。
「放っといたら」
「どこ行くか、分からん子やった」
指先が、カップの縁をなぞる。
「せやから」
「うちが、引き受けた」
声は、穏やかだった。
「庇ったいうよりな」
「……止めたかったんや」
「これ以上、誰かが壊れるん」
⸻
遥の胸で、何かが、静かにほどけていく。
犠牲。
逃避。
裏切り。
そうではなかった。
それは——覚悟だった。
⸻
「……遅なって、ごめんな」
咲良は、初めて、まっすぐに遥を見た。
「でもな」
「今なら、ちゃんと話せる」
⸻
遥は、ゆっくりと、頷いた。
世界は、もう元には戻らない。
失ったものも、取り戻せない。
それでも。
遮断されたはずの線は、確かに、ここに、残っていた。
——再び、繋ぐために。




