表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
76/82

重なり始めた輪郭③

 ひかりは泊まることはしなかった。


 どんなに遅くとも、必ず遥の部屋へは帰っていた。


 ただ、帰りが、遅い日が増えていた。


 それだけで、遥の胸は、ざわついていた。


 責めるつもりも、疑うつもりも、なかった。


 ただ——

 ひかりが「いない時間」が、あまりにも、長すぎた。



 玄関の鍵が回る音に、遥は即座に顔を上げた。


「……おかえり」


 声は、いつもと同じ。

 平静を装った、穏やかな調子。


「ただいま……」


 ひかりは、靴を脱ぎながら、わずかに間を置いた。

 視線は、合わない。


 それだけで、遥の中の何かが、静かに鳴った。


 ——警鐘。



 二人は、ソファに並んで座る。


 見慣れた夜。

 何度も繰り返してきた、はずの時間。


 遥は、ひかりを抱き寄せた。


 確かめるように。

 繋ぎ止めるように。


「……心配した」


 それは、非難ではない。

 不安を、そのまま差し出した言葉だった。



 ひかりの身体が、わずかに、こわばる。


「……今日は」

「ちょっと、疲れてて……」


 拒絶ではない。

 けれど、距離を置く意思だけは、はっきりしていた。



 遥の喉が、鳴る。


「逃げないで……」


 声が、震えた。


「今日は」

「ひとりに、しないで」


 縋るような、懇願。


「……温もりが、欲しい」



 ひかりは、俯いたまま、黙っていた。


 迷い。

 ためらい。

 そして——諦め。


 遥には、それが、はっきりと見えた。



 ひかりは、身を任せた。


 拒んではいない。

 だが、応えてもいない。


 その“空白”が、遥の不安を、さらに煽る。



 行為は、静かだった。


 確かめるようで、失うことを、必死に恐れるような触れ方。


 遥は、心の中で、何度も繰り返していた。


 ——まだ、ここにいる。

 ——自分のそばにいる。


 そう、思い込もうとして。



 だが。


 決定的な違和感は、突然、訪れた。



 ひかりの身体が、“知っているはずの反応”とは、微妙に違った。


 慣れ。

 余韻。

 ——そして、残された痕跡。


 理屈ではなく、感覚だった。


 遥の中で、確信に近いものが、形を取る。



 ——自分以外の、誰かと。


 ——ついさっきまで。


 ——しかも、境界を持たずに。



 遥の動きが、止まった。


 思考が、凍りつく。


 否定したい。

 間違いであってほしい。


 だが、身体が、先に理解してしまっていた。



「……ひかり」


 声は、低く、掠れていた。


 言葉を続けることが、できない。


 次の瞬間。


 遥の中で、何かが、はっきりと壊れた。



 叫び声は、出なかった。


 代わりに、世界が、反転する。


 愛していたはずの温もりが、一瞬で、異物へと変わる。


 汚された、という感覚。

 奪われた、という錯覚。


 理性が、感情に、押し潰される。



 遥は、ひかりから、離れた。


 後ずさりしながら、頭を振る。


「……違う」

「こんなの……」


 言葉にならない。


 否定したい。

 受け入れられない。


 だが、確信だけが、残酷なほど、鮮明だった。



 その夜。


 遥は、部屋を出た。


 行き先も告げず、振り返ることもなく。



 ——それから。


 遥は、戻らなかった。



 数日が、過ぎる。


 ひかりは、何度も電話をかけた。

 メッセージも、送った。


 既読は、つかない。


 応答も、ない。


 まるで、存在そのものが、遮断されたかのように。



 部屋には、遥の気配だけが、残っている。


 使いかけのマグカップ。

 畳まれたままの、上着。


 それらが、かえって、現実を突きつけてきた。



 ——取り返しが、つかない。


 ひかりは、初めて、そう思った。


 選んだつもりだった。

 自分の人生を。


 けれど。


 その選択が、誰かを、ここまで壊すとは、

 思っていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ