重なり始めた輪郭③
ひかりは泊まることはしなかった。
どんなに遅くとも、必ず遥の部屋へは帰っていた。
ただ、帰りが、遅い日が増えていた。
それだけで、遥の胸は、ざわついていた。
責めるつもりも、疑うつもりも、なかった。
ただ——
ひかりが「いない時間」が、あまりにも、長すぎた。
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玄関の鍵が回る音に、遥は即座に顔を上げた。
「……おかえり」
声は、いつもと同じ。
平静を装った、穏やかな調子。
「ただいま……」
ひかりは、靴を脱ぎながら、わずかに間を置いた。
視線は、合わない。
それだけで、遥の中の何かが、静かに鳴った。
——警鐘。
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二人は、ソファに並んで座る。
見慣れた夜。
何度も繰り返してきた、はずの時間。
遥は、ひかりを抱き寄せた。
確かめるように。
繋ぎ止めるように。
「……心配した」
それは、非難ではない。
不安を、そのまま差し出した言葉だった。
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ひかりの身体が、わずかに、こわばる。
「……今日は」
「ちょっと、疲れてて……」
拒絶ではない。
けれど、距離を置く意思だけは、はっきりしていた。
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遥の喉が、鳴る。
「逃げないで……」
声が、震えた。
「今日は」
「ひとりに、しないで」
縋るような、懇願。
「……温もりが、欲しい」
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ひかりは、俯いたまま、黙っていた。
迷い。
ためらい。
そして——諦め。
遥には、それが、はっきりと見えた。
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ひかりは、身を任せた。
拒んではいない。
だが、応えてもいない。
その“空白”が、遥の不安を、さらに煽る。
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行為は、静かだった。
確かめるようで、失うことを、必死に恐れるような触れ方。
遥は、心の中で、何度も繰り返していた。
——まだ、ここにいる。
——自分のそばにいる。
そう、思い込もうとして。
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だが。
決定的な違和感は、突然、訪れた。
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ひかりの身体が、“知っているはずの反応”とは、微妙に違った。
慣れ。
余韻。
——そして、残された痕跡。
理屈ではなく、感覚だった。
遥の中で、確信に近いものが、形を取る。
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——自分以外の、誰かと。
——ついさっきまで。
——しかも、境界を持たずに。
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遥の動きが、止まった。
思考が、凍りつく。
否定したい。
間違いであってほしい。
だが、身体が、先に理解してしまっていた。
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「……ひかり」
声は、低く、掠れていた。
言葉を続けることが、できない。
次の瞬間。
遥の中で、何かが、はっきりと壊れた。
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叫び声は、出なかった。
代わりに、世界が、反転する。
愛していたはずの温もりが、一瞬で、異物へと変わる。
汚された、という感覚。
奪われた、という錯覚。
理性が、感情に、押し潰される。
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遥は、ひかりから、離れた。
後ずさりしながら、頭を振る。
「……違う」
「こんなの……」
言葉にならない。
否定したい。
受け入れられない。
だが、確信だけが、残酷なほど、鮮明だった。
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その夜。
遥は、部屋を出た。
行き先も告げず、振り返ることもなく。
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——それから。
遥は、戻らなかった。
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数日が、過ぎる。
ひかりは、何度も電話をかけた。
メッセージも、送った。
既読は、つかない。
応答も、ない。
まるで、存在そのものが、遮断されたかのように。
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部屋には、遥の気配だけが、残っている。
使いかけのマグカップ。
畳まれたままの、上着。
それらが、かえって、現実を突きつけてきた。
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——取り返しが、つかない。
ひかりは、初めて、そう思った。
選んだつもりだった。
自分の人生を。
けれど。
その選択が、誰かを、ここまで壊すとは、
思っていなかった。




