重なり始めた輪郭①
大阪の夜景は、かつての万博の光とは違う。
もっと現実的で、生活に近い灯り。
——ここにいるのは、仕事のため。
——それだけのはずだった。
ノックの音が、静かに響く。
「……入ってもいいですか」
波多野の声だった。
「どうぞ」
ドアが閉まる音が、思いのほか、やさしく響いた。
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他愛のない話を、少しだけ。
今日の進捗。
若手の失敗。
笑ってしまうような事務的なミス。
仕事の延長線にある会話。
それ以上でも、それ以下でもない距離。
——はずだった。
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「……西園寺さん」
波多野は、ひかりを名前で呼ばない。
いつも、距離を測るように、苗字で呼ぶ。
その慎重さが、ひかりには、なぜか、救いのように感じられた。
「……無理しすぎていませんか」
問いかけは、指摘ではない。
確認だった。
ひかりは、少しだけ、息を吐く。
「……大丈夫です」
「慣れているので」
それが、本当なのかどうか。
自分でも、分からなかった。
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沈黙が落ちる。
だが、居心地の悪い沈黙ではない。
逃げ場のある、静けさ。
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触れたのは、偶然だった。
グラスを取ろうとした手が重なり、一瞬、互いに止まる。
波多野は、すぐに手を引こうとした。
——その一線を、越えないために。
「……ごめんなさい」
だが、ひかりの方が、わずかに、首を振った。
「……いいです」
それは、許可というより、拒否しない、という意思表示だった。
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波多野は、急がなかった。
抱き寄せることも、奪うことも、しない。
ただ、ひかりの反応を、一つひとつ、確かめるように触れる。
肩。
背中。
髪。
どれも、確認作業のような、やさしさ。
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——なのに。
ひかりの身体は、応えなかった。
熱はある。
触れられていることも、分かっている。
けれど、どこか、遠い。
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脳裏に浮かぶのは、遥の、指先の感覚。
呼吸の測り方。
間の取り方。
女の身体を、知り尽くした手つき。
——あの人に、身体を、作り替えられてしまった。
そんな言葉が、ひかりの胸を刺す。
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行為は、静かに、終わった。
波多野は、ひかりを抱き寄せたまま、しばらく、何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
「……私」
「下手でしたね」
自嘲でも、照れでもない。
事実を、軽く受け止める声だった。
「……そんなこと、ありません」
ひかりは、即座に否定する。
だが、その声に、自信がないことを、本人が一番、分かっていた。
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それからも、何度か、同じ夜があった。
同じやさしさ。
同じ違和感。
「……やっぱり、私、下手ですね」
「……違います」
そのやりとりを、何度も、繰り返した。
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けれど。
少しずつ。
本当に、少しずつ。
ひかりの身体は、波多野のリズムを、覚え始めていた。
遥とは、違う。
比べるものではない。
——新しい、輪郭。
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ひかりは、気づき始めていた。
この人は、自分を「必要」として縛らない。
自分の人生を、取り戻すための隣に、立ってくれる人だと。
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世界は、まだ、完全には繋がっていない。
過去も、傷も、残ったままだ。
それでも。
遮断された世界の向こう側で、別の未来が、静かに、形を持ち始めていた。
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——この先。
子どもを望むこと。
叶わないかもしれない現実。
それでも、手を離さない選択。
そのすべてを、まだ、ひかりは、知らない。
ただ。
この夜が、確かに「始まり」であることだけは、胸の奥で、静かに、理解していた。




