④水の底から
音が、遠くにある。
水の底から聞こえるみたいに、輪郭のぼやけた、規則正しい音。
——カチ、カチ、という一定のリズム。
未来は、目を閉じたまま、それを聞いていた。
ここが、どこなのかは分からない。
体が、重い。
まぶたを開けるという発想そのものが、ひどく遠い。
でも。
——声だけは、届いていた。
「……ねえ、未来」
涼子の声。
すぐに分かった。
少しだけ強がって、でも、最後は必ず震える声。
——また、泣いてるな。
そう思った瞬間、胸の奥が、きゅっと縮む。
泣かせたくなかった。
心配も、させたくなかった。
だから、未来は、答えようとする。
——だいじょうぶ。
——まだ、ここにいるよ。
けれど、声にならない。
唇も、喉も、動いてくれない。
代わりに。
記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
⸻
白い光。
人の声。
拍手と、歓声。
万博のパビリオン。
未来は、制服を着て立っている。
「いってらっしゃいませ」
「どうぞ、楽しんでください」
何度も言った、その言葉。
でも、本当に伝えたかったのは、別のことだった。
——ここに来てくれて、ありがとう。
——あなたの今日が、少しでも、いい日になりますように。
その中に。
一人の男性が、立っていた。
少し不器用な立ち方。
視線はまっすぐで、嘘がない。
——春樹さん。
名前を呼ぶと、胸が、あたたかくなる。
未来は、彼と一緒に、郵便局へ向かう。
Play!郵便局。
未来は、スタンプ帳を開く。
あのページ。
宝物のページ。
——二十年後の、私へ。
入力する手は、少し震えていた。
それでも。
——もし、生きていたら。
——もし、いなくても。
その瞬間、なぜか、胸が苦しくなった。
——まだ、あれから十年。
——ああ。
——私、未来のことを、怖がってる。
それでも。
怖いままでも、好きな人に出会えたことだけは、確かだった。
⸻
「……未来」
再び、声。
今度は、少し違う。
低くて、懐かしい。
聞き間違えるはずがない。
——春樹さん?
胸の奥が、強く、脈打つ。
でも、姿は見えない。
声だけが、闇の向こうから届く。
「……聞こえてるか?」
未来は、必死に、意識を寄せる。
——聞こえてる。
——ちゃんと、聞いてる。
——だから、行かないで。
その瞬間。
指先に、温度を感じた。
誰かが、手を握っている。
涼子の手。
現実の温度。
夢と、現実の境目が、ゆっくりと溶けていく。
未来は、分かる。
——私は、まだ、生きてる。
——ここに、身体がある。
——戻れる場所が、ある。
ほんのわずかに。
本当に、わずかに。
未来の指が、動いた。
自分でも、信じられないほど、小さな動き。
それでも、それは、確かに意思だった。
——まだ、終わらせない。
——まだ、伝えてない。
——好きだったって。
——生きたかったって。
胸の奥で、言葉が、灯り始める。
未来は、目を閉じたまま、祈る。
——時間をください。
——少しでいい。
——もう一度、声を出すための。
機械音が、変わらず、鳴っている。
けれど、そのリズムは、もう、ただの音ではなかった。
未来を、こちら側へ引き戻す、合図のように思えた。
闇の向こうで。
誰かが、名前を呼んでいる。
未来は、まだ、眠っている。
でも。
まだ、完全には、向こう側へ行っていなかった。
目を閉じたまま。
未来は、確かに、世界へ手を伸ばしていた。




