遮断された世界④重なり始めた輪郭
仕事は、淡々と、だが確実に進んでいた。
大阪・関西万博跡地再開発プロジェクト。
talina研究所と外部企業による共同事業。
ひかりは、責任者として現場に立っていた。
波多野は、以前と変わらない立ち位置にいた。
前に出すぎず、しかし、必要な場面では必ず前に出る。
誰かが詰まれば、自然に隣へ。
誰かが迷えば、答えではなく、考え方を示す。
声を荒げることはない。
否定から入ることもない。
それでいて、計画は、確実に前へ進んでいく。
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若い社員が、気軽に声をかけてくる。
「波多野さん、これどう思います?」
「すみません、少し相談いいですか」
上下の隔たりを感じさせない空気が、そこにあった。
波多野は、どんな相手にも態度を変えない。
責任者である前に、一緒に働く仲間として向き合う人間だった。
「部下を育てるのが、上に立つ者の仕事ですから」
それは、彼の持論だった。
成果を奪わない。
責任だけを押し付けない。
失敗したときは、矢面に立ち、成功したときは、部下の名前を前に出す。
だから、信頼されていた。
慕われていた。
その姿は、ひかりにとって、どこか懐かしかった。
——自分も、かつて、そうであろうとしていた。
誰かの人生に、責任を持ちすぎて、自分を後回しにしてしまう、その在り方。
⸻
打ち合わせの合間。
二人は、窓際に立っていた。
外では、工事音が遠くに響いている。
「……ここで、未来を見せるはずだったんですよね」
波多野が、静かに言う。
「ええ」
「未来を信じる場所、でした」
ひかりの声は、落ち着いていた。
痛みは、もう、棘ではなく、記憶になっていた。
「新垣さんのことは……」
波多野は、言葉を選びながら続ける。
「派遣責任者として、最初から聞いていました」
「病気のことも、状態のことも」
ひかりは、驚かなかった。
この人なら、知っていて、その上で、態度を変えなかったのだと、分かっていたからだ。
「休職して、戻れなくなって」
「それでも、連絡は取っていました」
波多野は、窓の外を見たまま、言った。
「……今度、手術を受けるそうです」
「かなり、厳しい状況だと」
沈黙が落ちる。
「空野さんと、新垣さんは」
「幸せになってほしかった」
それは、同情でも、慰めでもなかった。
ただ、誰かの人生を、最後まで他人事にしない人の言葉だった。
ひかりの胸が、わずかに、締めつけられる。
同時に、この人が、なぜこんなにも信頼されているのか、はっきりと理解した。
——似ている。
自分よりも、他人を先に考えるところ。
誰かを救おうとして、自分を削ってしまうところ。
それが、ひかり自身の姿と、重なって見えた。
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仕事が進むにつれ、二人で話す時間も、自然に増えていった。
効率の話。
部下の育て方。
責任の持ち方。
どれも、仕事の話だった。
だが、そこには、価値観が、静かに共有されていく感覚があった。
⸻
帰り道。
駅まで並んで歩く。
街灯の下で、影が重なる。
「西園寺さんは」
「人の人生を、背負いすぎますね」
波多野の言葉は、責めではなかった。
気づいてしまった人の、静かな指摘だった。
「……そう、かもしれません」
ひかりは、否定しなかった。
「でも」
「それを、悪いことだとは思いません」
波多野は、少しだけ微笑んだ。
「私も、同じです」
その一言が、ひかりの中で、静かに響いた。
——理解されている。
——役割でも、依存でもなく。
ただ、一人の人間として。
⸻
その夜。
遥の部屋に戻ったひかりは、いつもより、少しだけ、言葉が少なかった。
「……仕事、順調?」
「うん」
「順調だよ」
嘘ではない。
だが、すべてでもない。
遥は、それ以上、聞かなかった。
聞いてしまえば、この均衡が、崩れる気がしていたからだ。
⸻
布団に入ったあと。
ひかりは、目を閉じながら、思う。
——誰かの隣で。
——自分を保ったまま、呼吸できる場所。
そんな未来が、まだ、残されているのかもしれない、と。
世界は、まだ、遮断されたままだ。
だが。
時間の向こう側で、別の線が、ゆっくりと、引かれ始めている。
それは、まだ交わらない。
けれど、確かに、同じ未来へ向かっていた。
——そして。
この停滞した世界に、再び、過去からの”手紙”が届く日が来ることを、ひかりは、まだ、知らない。




