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遮断された世界③歪んだ安定

 二人の生活は、外から見れば、驚くほど穏やかだった。


 同じ時間に起き、同じテーブルで食事をし、同じ部屋で夜を迎える。


 会話は減ったが、不満は表に出ない。

 衝突も、劇的な変化もない。


 それは、安定と呼ぶには、あまりに静かすぎる日々だった。



 ひかりは、遥の隣にいることに、すっかり慣れてしまっていた。


 最初は「支える」つもりだった。

 壊れた心を、ひとりで抱えさせたくなかった。


 だが、いつの間にか。


 遥の体調。

 遥の沈黙。

 遥の微かな表情の揺れ。


 それらを基準に、ひかりの一日が組み立てられていく。


 自分の希望や予定は、自然と、後ろに回されていた。



 夜。


 照明を落とした部屋で、二人は並んでソファに座る。


 テレビはついているが、内容を見ているわけではない。


 遥が、ひかりの肩に、そっと額を預けた。


 触れるか、触れないか。

 その曖昧な距離。


 ひかりは、拒まなかった。


 拒む理由が、見つからなかった。



 指先が、服の上から触れる。


 欲情というより、存在確認に近い動き。


 ここにいるか。

 離れていないか。


「……ひかり」


 名前を呼ばれるたび、胸の奥で、小さな痛みが走る。



 ——本当は。


 ——こんな未来を、思い描いていたわけじゃない。


 結婚して、名字が変わって。


 休日には、家族で出かけて、子どもの手を引いて歩く。


 どこにでもある、平凡で、温かな未来。


 それを、確かに、夢見ていたはずだった。



 声にならない吐息が、喉で止まる。


 遥は、その違和感に気づいた。


 だが、何も言わない。


 聞いてしまえば、この関係が崩れることを、どこかで理解していたからだ。



 行為のあと。


 ひかりは、遥の腕の中にいる。


 抱き合っているのか、抱き込まれているのか。


 もう、分からない。


「……このままで、いいよね」


 遥の声は、祈りに近かった。



 ひかりは答えず、ただ、背中に腕を回す。


 それが、肯定になってしまうことを、分かっていながら。



 数日後。


 ひかりは、仕事で大阪・関西万博の跡地を訪れていた。


 かつての賑わいは、もうない。

 再開発が進み、風景はすっかり様変わりしている。


 整然と並ぶ建物。

 未来を見据えた無機質な構造物。


 それでも。


 ここには、確かに、記憶が残っていた。



 ひかりは、足を止める。


 ——ここで、未来ちゃんに出会った。


 ——そして。


 ——春樹と、わたしの運命は、大きく変わった。


 あの頃は、すべてが動き出す気配に満ちていた。


 希望も、不安も、等しく輝いていた。



「……西園寺さん?」


 不意に、背後から声がかかる。


 ひかりは、ゆっくりと振り返った。



 そこに立っていたのは、波多野だった。


 かつて、万博で同じパビリオンの、隣のブースに立っていた信頼できる男。


 穏やかな笑み。

 踏み込みすぎない距離感。


 時間が経っても、本質は変わっていないように見えた。


「お久しぶりです」

「まさか、またここでお会いするとは」



「……どうして、こちらに?」


 ひかりがそう尋ねると、波多野は、少し照れたように笑った。


「実は、今回のプロジェクト、私が責任者でして」

「talina研究所さんと、またご一緒できるとは思いませんでした」



 ひかりは、少しだけ驚く。


「そうだったんですね」


「西園寺さんは?」

「今回の責任者は……?」



「……私です」

「talina研究所の、責任者として来ています」


 波多野は、ほんの一瞬、目を見開き、それから、嬉しそうに頷いた。


「そうですか」

「では、また一緒に仕事ができますね」



 その言葉は、期待でも、下心でもなかった。


 ただ、未来を自然に共有する響きがあった。


 ひかりの胸が、わずかに、軽くなる。



 遥といる時には、感じたことのない感覚。


 説明も、覚悟も、必要としない距離。


 ——こういう関係も、あったのだ。


 ひかりは、初めて、そう思った。



 一方で。


 遥は、ひかりの変化に、薄く、だが確実に気づいていた。


 視線が、どこか遠くを向くこと。

 微笑みが、少しだけ変わったこと。


 理由に、心当たりがないわけではない。



 ——それでも。


 ひかりは、まだここにいる。


 それが、事実だ。


 理由は、どうでもいい。


 必要なのは、「今は離れていない」という結果だけ。



 失ったものは、多い。


 咲良。

 過去の自分。

 正しさ。


 だが。


 ひかりだけは、まだ、手の届く場所にいる。



 それでいい。


 それで、生きていける。


 そう思い込むことでしか、遥は、前に進めなかった。



 だが、ひかりの胸には、小さな灯りが、確かにともっていた。


 それは、逃げではない。

 裏切りでもない。


 ただ。


 ——未来へ進むための、可能性。



 二人の関係は、まだ壊れてはいない。


 けれど。


 歪んだ安定の中で、ひかりの視線だけが、静かに、次の世界を見始めていた。

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