表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
67/82

遮断された世界②消えなかった線

 さらに、月日が流れた。


 二年が三年に変わり、季節は、思い出よりも早く更新されていく。


 連絡が取れないという事実だけが、異物のように日常に残り続けていた。


 理由は、分からない。

 問いただす術も、ない。


 それでも、世界は止まらない。



 talina研究所のロビーに、フラッシュが焚かれていた。


 就任会見を終えたばかりの村山が、ゆっくりと歩みを進めてくる。


 ——社長就任。


 長い時間をかけて、ようやく辿り着いた場所だった。


 その横に、かつているはずだった人物はいない。


 春樹の姿は、どこにもなかった。



 代わりに、二人の女性が立っていた。


 神崎遥。

 talina研究所・取締役。


 そして——

 西園寺ひかり。

 執行役員。


 かつての幼い面影は、もう薄い。


 そこにあるのは、肩書きと責任を背負った、大人の顔だった。



 村山は、二人の前で足を止めた。


 短く、深く、息を吐く。


「ありがとう」


 記者の前では見せなかった、個人的な声音だった。


「……お前たちは、よくやってくれた」

「礼を言う」


 遥は、小さく頭を下げた。


 ひかりも、それに倣う。


 その瞬間、ここに春樹はいないという事実だけが、不自然な空白として、強く意識された。



 ——もし、彼がtalina研究所にいたら。


 その仮定を、誰も口にすることはなかった。



 春樹がアメリカへ旅立ってから、十年目のことだった。


 清水川美香の死が村山から伝えられ、遅れて新聞の片隅に、小さな記事が載った。


 覚醒剤使用による、急性中毒死。


 見出しにもならない、消費されるだけの事実。


 遥は、その記事を、静かに、何度も読み返した。


 怒りも、安堵も、湧いてこない。


 胸の奥で、何かが、静かに折れる音がしただけだった。



 ——ずいぶん前のことだ。


 村山が、遥にそう告げたのは。


「……綾瀬咲良は、身の危険を感じていた」


 声は低く、感情を削ぎ落とした調子だった。


 居場所は、教えない。

 だが、続けて、こう言った。


「連絡手段は、生かしてある」

「完全に切ってはいない」


 遥は、わずかに眉を動かした。


 ——拒絶ではない。

 ——遮断でもない。


 だが、意図的に置かれた距離が、そこにはあった。


「清水川美香は……」

「君だけを恨んでいたわけじゃない」


 村山は、視線を伏せる。


「綾瀬咲良のことも、強く逆恨みしていた」



 咲良は、娘のみさきちゃんを連れて、姿を消していた。


 逃げるためではない。

 守るために。


 巻き込まないために。


 村山は、それ以上を語らなかった。



 葬儀の日。


 遥は、会場の後方に立っていた。


 受付で名前は告げず、誰とも目を合わせない。


 ——見届けるため。


 それだけの理由だった。



 棺に横たわる清水川美香の顔は、奇妙なほど、静かだった。


 怨嗟も、恐怖も、そこには残っていないように見えた。


 ——これで、終わりか。


 遥は、そう思った。


 だが。


 終わらないものが、まだ残っていることを、このときは、理解していなかった。



 式が終わり、人の流れが、ゆっくりと外へ向かう。


 その中で。


 遥は、見覚えのある背中を見つけた。


 黒い喪服。

 迷いのない歩幅。

 伸びた背筋。


 ——綾瀬咲良。


 心臓が、一拍、遅れて強く打った。



 声をかけるつもりは、なかった。


 この距離は、まだ越えてはいけない線だと、自分で分かっていたからだ。


 だが、すれ違う、その直前。


「……遥」


 先に、呼ばれた。



 咲良は、こちらを見なかった。


 視線を前に向けたまま、静かに、言う。


「来てくれたんやな」

「……ありがとう」


 それだけ。


 関西弁特有の柔らかさの奥に、何かを押し殺した硬さがあった。



 遥は、問いを飲み込んだ。


 なぜ、清水川美香を庇ったのか。

 なぜ、すべてを捨てて消えたのか。


 ここで聞くべきではない。


 本能が、はっきりと告げていた。



「……連絡」


 遥は、短く言った。


「取れますよね」


 咲良は、一瞬だけ、歩みを止めた。


 そして、ほんの僅かに、肩を揺らす。


「……遥のこと」

「切ったりしてへん」


 その声は、拒絶ではなかった。


 だが、触れられたくない何かを、必死に守るような響きだった。



「全部な……」


 咲良は、小さく息を吐く。


「……終わってもうた」


 それから、噛みしめるように、続けた。


「うちの責任や」

「全部……うちのせいや」


 その言葉が、遥の胸に、深く残った。



 咲良は、それ以上、何も言わなかった。


 振り返らず、人の流れに紛れていく。


 追いかけることは、できた。


 だが、遥は、そうしなかった。


 ——今は、まだ。


 この距離が、二人に必要なのだと、理解してしまったからだ。



 数日後。


 遥のスマートフォンに、短い通知が届いた。


 登録名は、綾瀬咲良。


 本文は、たった一行。


 《一度、ちゃんと話そ》



 遥は、画面を見つめたまま、ゆっくりと息を吐いた。


 切れていない。

 避けられても、拒まれてもいない。


 ただ、時が、必要なだけだ。


 ——まだ、ここからだ。


 世界は、遮断されたままでも、この線だけは、確かに、残っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ