遥の過去編② 余波② — 越えなかった一線
部屋に戻ると、ひかりは遥をそっとベッドに横にならせた。
「少し……休もう」
そう言った自分の声が、やけに遠く聞こえる。
遥は何も言わなかった。
ただ、天井を見つめたまま、瞬きもしない。
ひかりは立ち上がり、カーテンを閉める。
部屋の中が、柔らかく暗くなった。
――帰ろう。
そう思った、その瞬間。
「……ひかり」
背後から、かすれた声がした。
振り返ると、遥が起き上がっていた。
シーツを胸元に寄せたまま、視線だけがこちらを捉えている。
「……言わなきゃ、だめだと思って」
ひかりは、何も言わずに腰を下ろした。
「……あいつ」
一拍。
「春樹は……最後のところは、越えてない」
ひかりの胸が、きゅっと締まる。
「……わたしが、服を脱がせたの」
遥は、かすかに笑った。
ひかりは、何も言えなかった。
「でも……」
「踏み込まなかった」
声が、震える。
「指一本……」
「本当に、触れなかった」
遥は、唇を噛んだ。
「……抱いてくれたら」
「わたし、救われたと思った」
次の瞬間。
堰を切ったように、遥の感情が溢れ出した。
「……抱いてくれたら……!」
「メチャクチャにしてくれたら……!」
「わたし、自分を許せたかもしれないのに……!」
肩が、大きく揺れる。
「……自分を、断罪したかった」
「壊れてしまえば……楽になると思った……!」
嗚咽が、言葉を引き裂く。
ひかりは、思わず立ち上がり、遥を抱きしめた。
「違うよ……!」
声が、震える。
「抱かれてたら……」
「遥は、もっと自分を責めてた」
遥の背中に、指が食い込むほど強く抱きしめる。
「一生、自分を赦せなくなってた……!」
遥の身体が、びくりと跳ねた。
「……これ以上」
「自分を壊さないで……」
ひかりは、囁く。
「……わたしが、そばにいる」
「一人には、しない」
遥の呼吸が、少しずつ落ち着いていく。
しばらくして。
遥は、ひかりの胸元に顔を埋めたまま、ぽつりと呟いた。
「……ありがとう」
その声は、あまりにも弱くて。
ひかりの胸に、別の感情が芽生えた。
――これは。
――救い?
――それとも、縛り?
自分が今、言ってしまった言葉が、遥を立たせるのか、依存させるのか。
分からなかった。
それでも。
腕を解くことは、できなかった。
⸻
翌朝。
遥は、まだ眠っていた。
ひかりは、身支度を整えながら、昨夜の言葉を思い返す。
――わたしが、そばにいる。
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
(……言いすぎたかもしれない)
それが、責任なのか。
同情なのか。
それとも――別の感情なのか。
答えは、出なかった。
ただ一つ、確かなのは。
あの夜、春樹が越えなかった一線が、遥の人生を、かろうじて繋ぎ止めていたということ。
そして同時に。
その越えなかった場所に、自分が立ってしまっているという不安だった。
ひかりは、静かに息を吐いた。
まだ、引き返せる。
――本当に、そうだろうか。
眠る遥の横顔を見つめながら、その問いだけが、胸に残っていた。




