遥の過去編② 余波①—ひかりが見てしまった朝
一緒に遥を探してもらいたく、ひかりは春樹の部屋へと向かった。
インターホンを押すと、しばらくして、ドアが開いた。
「……ひかり?」
春樹だった。
少し乱れた髪。
着替えたばかりのような服。
その瞬間、ひかりの視線が、玄関の床に落ちた。
——靴。
女物の靴が、乱雑に脱ぎ捨てられている。
見覚えが、あった。
心臓が、一拍遅れて鳴る。
「……遥は?」
問いかける声が、僅かに硬くなる。
春樹は、一瞬だけ言葉に詰まった。
「……中にいる」
それだけで、十分だった。
ひかりは、靴を脱ぐ。
遠慮も、確認もなかった。
ずかずかと、部屋に上がり込む。
「遥!」
返事は、ない。
「遥、いるんでしょ!」
春樹が何か言いかけたが、ひかりは聞かなかった。
寝室のドアが、開いている。
半分だけ。
嫌な予感が、背骨を、冷たく撫でた。
⸻
ベッドの上に、遥がいた。
裸のまま、シーツを胸元まで引き上げて。
横向きに、小さく、丸くなっている。
一瞬、時間が止まった。
音が、消えた。
ひかりは、何も言えなかった。
——分かってしまった。
説明も、理由も、聞く必要はなかった。
床に散らばった服。
すべてが、「もう遅い」と告げていた。
⸻
「……遥」
名前を呼ぶと、彼女の肩が、わずかに揺れた。
目は、開かない。
眠っているのではない。
逃げている。
ひかりは、ゆっくりと近づく。
そっと、肩に手を掛ける。
そのとき。
遥の指が、ひかりの袖を掴んだ。
驚くほど弱い力。
まるで、沈みきる直前の、最後の掴み。
「……ひかり……」
掠れた声。
「……ごめん……」
ひかりは、答えなかった。
何に対する謝罪か、分かってしまったから。
代わりに、その手を包む。
冷たかった。
生きているのに、体温が、そこにない。
——これは。
誰かに壊された痕じゃない。
遥が、自分で自分を壊した、その途中だ。
⸻
春樹は、寝室の入口に立っていた。
入ってこない。
近づこうともしない。
壁に背をつけ、視線を床に落としたまま。
言葉も、言い訳も、一切、なかった。
ひかりは、彼を見なかった。
見てしまえば、怒りか、軽蔑か、どちらかを選ばなければならなくなる。
今は、それをする時間じゃない。
⸻
帰り道。
遥は、ひかりの肩にもたれて歩いた。
何も話さない。
何も聞かない。
ただ、倒れないように、支える。
それだけ。
信号待ちで、遥が、ぽつりと呟いた。
「……私……」
言葉は、続かなかった。
ひかりは、歩調を緩める。
でも、顔は見ない。
見てしまえば、遥は、また壊れる。
——ひかりには、分かっていた。
この夜のことは、忘れたふりは、できるかもしれない。
でも。
消えない。
確実に、遥の中に残る。
そして、それを見てしまった自分の中にも。
⸻
ひかりは、心の中でだけ誓った。
——守る、なんて言わない。
——救う、なんて言葉も使わない。
ただ、一人にしない。
それだけを、何度も、何度も、繰り返した。
この朝が、もう二度と、繰り返されないように。




