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遥の過去編② 白い封筒②—守るという名の暴力

 噂は、想像よりもずっと軽く、ずっと速く広がった。


「神崎遥ってさ」

「例の声帯認証の人?」

「男関係で問題起こしたらしいよ」


 ——全国営業実績・年間・第一位。

 大阪支社、神崎遥。


 その肩書きがあるからこそ、噂は退屈な日常の娯楽になった。


 面白半分。

 悪意のない残酷さ。



 東京支社。


 休憩室の一角で、相馬武はコーヒーを飲みながら話していた。


 数字を持つ男。

 顔が広く、情報に早い。


「いやあ……大阪、荒れてるね」


 相手は、春樹だった。


「神崎さんの件、知ってる?」


 春樹の指が、止まる。


「……聞いた」


 声は低かった。


「でも、あれは……」


「上司だよ」


 相馬は、被せるように言った。


「綾瀬咲良」

「直属の課長」


 断定。


「成績抜かれて、相当イラついてたらしい」

 

 相馬武は営業成績全国3位、情報収集力に長けていた。


 春樹は、何も言わなかった。


「自白したって」

「自分が書いたって」


 ——それは、事実だった。


「でも処分、甘すぎる」

「降格と異動だけ」

「会社に残るらしい」


 相馬は、鼻で笑った。


「また被害者出るぞ」

「神崎さんみたいなのが」


 春樹の胸に、熱が溜まる。


「……それが許されるのか」


「許されないだろ!」


 相馬は感情を剥き出しにした。


「くだらない女だよな」

「嫉妬で部下潰す上司なんて」


 ——分かりやすい悪。


 春樹の理性は、その形に引き寄せられた。



 大阪。


 遥の部屋は、昼でも暗かった。


 カーテンは閉じられ、空気が淀んでいる。


 玄関にはカギが掛かっていなかった。

 開けた瞬間、ひかりは言葉を失った。


 ——臭い。


 汗と、こもった空気。

 何日も、身体を洗っていない匂い。


「……遥」


 返事はない。


 床に座り込み、膝を抱えたまま。

 視線は、どこにも合っていなかった。


 ひかりが、そっと肩に触れる。


「……病院、行こ」


 遥は、瞬きをした。

 それだけだった。



 診断は、淡々としていた。


「急性ストレス障害」

「解離症状が強い」


 医師は言った。


「仕事は無理です」

「病気休暇を取ってください」


 遥は、何も言わなかった。


 言葉を、選ぶ力がなかった。



 春樹は、怒っていた。


 静かに、だが確実に。


 大阪で、ハラスメント案件に強い弁護士を探した。


「相手が自白しているなら、勝てます」

「本人が訴える意思を示せば」


 春樹は、遥を見た。


「……大丈夫だ」


 理路整然と説明する。


「これは、正当な権利だ」

「上司によるハラスメントだ」

「君は、被害者だ」


 遥は、頷いた。


 ——理解したわけではない。


 ただ、

 反対する力がなかった。


 机の上に置かれた書類。

 訴状の下書き。


 その文字を、遥はぼんやり眺めていた。


「……これ……」


 かすれた声。


「……変……」


 春樹が顔を上げる。


「何が?」


 遥は、しばらく考えた。


 言葉が、繋がらない。


「……男……好き……って……」


 春樹は、即座に返す。


「中傷だ」

「悪意のある完全なデタラメだ」


 遥は、それ以上言えなかった。


 違和感は、形にならない。


 ——考えれば、頭が痛くなる。


 思考は、そこで途切れた。



 訴状は、提出された。


 talina研究所に、正式に届いた。


 その瞬間。


 歯車は、止まらなくなった。



 後日。


 弁護士が、説明した。


「これは、本人の意思として提出されています」

「会社側は、正式対応に入ります」


 その言葉で。


 遥の中で、何かが繋がった。


 ——私の意思?


 書類を見る。


 自分の名前。

 自分の署名。


 ——これが、私が望んだことになる。


「……違う……」


 遥は、顔を上げた。


「……私……」

「……こんなの……」


 声が、震える。


「……望んでない……」


 春樹は、遮った。


「君のためだ」


 優しい声だった。


「今は、混乱してる」

「やらないと後悔する」

「君のことは俺が守る」


 遥は、首を振った。


 はっきりと。


「……やめて……」


 それは、久しぶりの明確な拒否だった。


「……お願い……」


 春樹は、聞き入れなかった。



 結果は、早かった。


 話は、大きくなりすぎた。


 村山常務は、頭を抱えた。


「……解雇やむなし」


 本来は、降格と異動で終わらせるつもりだった。


 だが——訴訟。


 外に出る。

 隠せない。



 遅れて、遥は訴訟を取り下げた。


 しかし。


 もう、何も戻らなかった。


 綾瀬咲良は、会社を去っていた。


 白い封筒から始まった歯車は、誰の手にも、止められなかった。

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