遥の過去編② 白い封筒①—私の人生が、壊れ始めた日
大阪支社のフロアは、いつもと同じ匂いがしていた。
コピー用紙の乾いた匂いと、淹れたてのコーヒーが混じる、仕事の空気。
その朝、神崎遥は、自分のデスクに置かれた一通の封筒に気づいた。
白い封筒。
社内便で、全社員の机に配られているものと同じ形式。
だが、差出人の欄は、空白だった。
(……何、これ)
胸の奥が、理由もなくざわつく。
嫌な予感だけが、先に立った。
封は、異様なほど丁寧に閉じられていた。
迷いなく、確信をもって封をした痕。
周囲を見渡すと、同じ封筒を手にしている社員が何人もいた。
視線が合うと、誰もが一瞬だけ目を逸らす。
——見られている。
遥は、指先で封を切った。
中に入っていたのは、数枚のコピー用紙。
最初の一行が、視界に飛び込んできた。
――神崎遥は“男好き”です。
――社内の複数男性と不適切な関係あり。
――客観的な証拠あります。調査を求めます。
息が、止まった。
「……は?」
喉の奥で、声が潰れる。
何度も、読み返す。
否定しようにも、文字が事実の顔をしてそこにある。
(……違う)
違う。
そんな事実は、どこにもない。
そもそも——。
(……私……)
そこまで考えた瞬間、思考が途切れた。
自分の内面を、この場で整理しなければならないこと自体が、もう屈辱だった。
紙の下部に、太字の一文があった。
――近く、“本物”を送りつける。
呼吸が、浅くなる。
「……本物?」
何を。
誰が。
身に覚えは、ない。
断じて、ない。
なのに、「客観的」という言葉だけが、やけに胸に刺さった。
(……客観的に……)
その日、仕事はほとんど頭に入らなかった。
数字を見ても、会話をしても、すべてが薄膜一枚向こうで起きている感覚。
昼前、耐えきれずに、遥は席を立った。
綾瀬咲良。
大阪支社の営業部課長。
背筋を伸ばし、画面を見つめる横顔は、いつも通り冷静だった。
遥は、封筒を差し出した。
咲良は、黙って中身を読んだ。
最後まで読み終えても、表情は変わらない。
「……気にせんでええ」
大阪弁の、落ち着いた声。
「明らかな悪意や。証拠なんか、出るわけない」
淡々とした判断。
「こういうのはな、無視が一番や」
遥は、ほっとするべきだった。
信頼する上司が、そう言ってくれる。
それだけで、十分なはずなのに。
(……なのに)
咲良は、遥の目を見なかった。
ほんの一瞬。
視線が、逸れた。
その違和感が、胸に残った。
数日後、二通目が届いた。
内容は、より具体的だった。
日時。場所。ありもしない証拠写真の予告。
フロアの空気が、変わった。
ざわめき。
噂。
探るような視線。
——本物。
その言葉が、頭から離れない。
ある午後、人事に呼ばれた。
会議室には、人事部長、コンプライアンス担当部長、営業本部長が揃っていた。
「事実確認をします」
淡々とした声。
「この内容に、心当たりはありますか」
「ありません……」
声が、震える。
「一切?」
「ありません!」
思わず、声が大きくなる。
「男の人と、そんな……私……」
言葉が、途中で詰まった。
自分の内面を、ここで説明しなければならない現実が、あまりにも惨めだった。
「……分かりました」
人事部長は、冷たく言った。
「調査に入ります。それまでは——自宅待機で」
世界が、落ちた。
⸻
その日の夕方、咲良に呼ばれた。
会議室。
扉が閉まる。
「課長……私、やってません……」
声は、泣き声に近かった。
咲良は、すぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
「……せやな」
低い声。
「やってへん」
胸が、少しだけ緩む。
「……ほら……」
だが、次の言葉が、それを壊した。
「——あんたはな」
咲良は、遥をまっすぐ見据えた。
「やってへん。でもな」
一歩、距離を詰める。
「書いたんは、うちや」
「……え?」
「誹謗中傷の文章。全部、うちが書いた」
淡々とした声。
嘘をつくときの声音ではなかった。
「嫉妬した。腹立った。あんたが、あっさり結果出すのが」
遥の頭が、揺れる。
「……そんな……」
「せや」
咲良は、冷たく言い切った。
「うちはな、あんたが嫌いや」
喉が、鳴った。
「努力も苦労も知らん顔で、天才みたいに扱われるのが、な」
遥の視界が、滲む。
「……どうして……」
咲良は、少しだけ目を細めた。
「遥、あんたな」
言葉を選ぶように、咲良は一拍置いた。
「……うちのこと」
視線が、遥を正面から射抜く。
「品定めするみたいな目で、見とったやろ」
「……っ……!」
「視線ってな、隠せへんねん」
淡々とした声。
「舐めるみたいに追ってきて、“触れへん代わりに、想像で済ませてる”そんな目や」
遥の喉が、ひくりと鳴った。
「……違……」
「違わへん」
即答だった。
「頭の中でや」
一語一語、切り分けるように。
「勝手に、うちを都合のええ姿に作り変えて」
世界が、止まる。
「……鳥肌立ったわ」
「女同士やからってな」
一歩、距離を取る。
「何しても許される思たら、それが一番、傲慢や」
最後に、突き放す。
「二度と、その目で、うちを見るな」
遥の中で、何かが、音を立てて壊れた。
信じていた。
尊敬していた。
救われたと思っていた。
そのすべてを、この人自身が否定した。
「……分かりました……」
絞り出す声。
咲良は、振り返らなかった。
「安心し。処分は、うちがちゃんと受ける」
その声は、謝罪でも弁明でもなかった。
決意だけが、冷たく置かれていた。
その言葉が、“最後の優しさ”だと、遥は気づけなかった。
扉を出た瞬間、膝が崩れ落ちた。
——この人が犯人なんだ。
そう、信じるしかなかった。
白い封筒は、音もなく、遥の人生を壊していた。




