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アメリカ行き ③ 追いつけない背中

 病院を出たあと、春樹はしばらく、その場から動けずにいた。


 朝の光はすでに高く、行き交う人々の足取りも、昨日と何ひとつ変わらない。

 世界は、何事もなかったかのように回り続けている。


 ——未来だけが、いない。


 胸の奥に、空洞のような感覚が広がっていた。


 ポケットの中で、携帯電話が震える。

 ひかりからだった。


「……今、話せる?」


「ああ」


 声に感情が乗らないことに、自分で驚いた。


「波多野さんから聞いた。未来さん、朝のうちに搬送されたんだって」


「……ああ」


「行き先は……ごめん、私も詳しくは知らされてない。ただ」


 短い沈黙。


「会社に登録されてた緊急連絡先が、対応したらしい」


「……そうか」


 それ以上は、聞かなかった。


 聞いたところで、

 自分にできることは、何もない。


 電話を切ると、胸の奥に鈍い痛みが残った。


 ——緊急連絡先。


 未来は、自分に何も言わなかった。

 言えなかったのか。

 言う必要がないと思っていたのか。


(……どっちでも、同じだ)


 春樹は、ゆっくりと歩き出した。

 行き先も決めず、ただ足が前に出るままに。


 脳裏に、未来の声が浮かぶ。


『行ってください。アメリカ』


 迷いのない瞳。

 揺るがない言葉。


 ——あのとき。

 彼女は、もう分かっていたのかもしれない。


 自分の体調のこと。

 これから起こること。

 そして、自分がここにいられなくなる可能性も。


(……だから、言ったのか)


 ——待ってます。


 その言葉が、今になって胸を締めつける。


 待つ、という選択を、彼女は一方的に引き受けてしまった。


 視線の先に、万博会場のゲートが見えた。

 昨日まで、未来が立っていた場所。


 笑顔で、パンフレットを配っていた場所。


 もう、そこにはいない。


 携帯を取り出し、アメリカ行きの資料を表示する。

 出発予定日。

 任期。

 条件。


 すべてが、合理的で、整然としている。


 ——正しい選択だ。


 そう言い聞かせるほど、胸の奥が、静かに拒絶した。


 そのときだった。


 携帯が、再び震えた。


 ——波多野。


「……空野さん。少し、お時間いいですか」


 声は、いつもより低く、慎重に整えられていた。


「ああ」


「まず、これは本来、あなたにお伝えするべき内容ではありません」


 前置きの言葉に、胸の奥が静かに張り詰める。


「個人情報の扱いとしても、私の立場的にも……正直、ギリギリです」


 一拍。


「ただ……未来さんの件について、最低限、あなたに、知っておいてほしいことがあると判断しました」


 春樹は足を止めた。


「未来さんのご両親は……いらっしゃいません」


 その言葉が、静かに胸に落ちる。


「緊急連絡先として登録されていたのは……比嘉涼子さん、という方です」


 名前だけが、頭に残った。


 ——比嘉涼子。


「それ以上のことは、お伝えできません。連絡先も、居場所も、関係性も……そこから先は、完全に守られるべき情報です」


 波多野は、きっぱりと言った。


 だが、少しだけ、言葉を続ける。


「……未来さんの体調については、派遣責任者として、最低限の説明を受けていました」


 大阪・関西万博のテーマ

《いのち輝く未来社会のデザイン》

『一人ひとりが望む生き方を考え、可能性を最大限に発揮できる持続可能な社会を国際社会が共創することを目指しています。』


 多様な背景を持つ人が、排除されず、当たり前に立てる場所をつくる。

 その象徴として、未来は選ばれていた。


「彼女は、難病患者であることを隠していませんでした。でも……それ以上に、誰にでも平等で、現場の空気を変える力があった」


 声が、わずかに柔らぐ。


「だからこそ、フォロー役として、私が付くように言われていました」


 一瞬の間。


「あなたが、未来さんの病気を知った上で、特別扱いせず、同情もしないで、ただ隣に立っていたこと……それは、見ていて分かりました」


 春樹は、言葉を失った。


「正直に言います」


 波多野は、息を吸う。


「私は、あなたたちに、幸せになってほしいと思っています」


 一拍。


「だから……名前だけは、お伝えしました」


 それ以上は、言わない。

 それ以上は、言えない。


 電話は、そこで切れた。


 春樹は、しばらく、その場に立ち尽くしていた。


 ——比嘉涼子。


 守られている未来。

 そして、自分が立ち入れない、確かな境界線。


 その後、万博会場を歩いていると、Talina研究所の岩田に呼び止められた。


「空野くん。さっき、比嘉って人から電話があった」


 心臓が、大きく跳ねた。


「未来ちゃんからの伝言だって」


 岩田は続ける。


「『春樹さん、わたしは大丈夫。少し入院するけど、大丈夫だから。自分の夢を、諦めないでください』って」


 それだけ言って、電話は切れたらしい。


 連絡先は、聞けなかった。


 ——それが、答えだった。


 2025年大阪・関西万博閉幕日。


 春樹は、村山常務に連絡を入れた。


「海外派遣、受けます」


 伝えた瞬間、胸の奥に、静かな痛みが広がった。


(……未来、俺は行く)


 その決断が、誰の望みで、誰の策略で、誰のためのものなのか。


 春樹は、まだ知らない。


 ただ。


 未来が言った言葉だけが、彼を前へ進ませていた。


 ——夢を、諦めないで。

 こうして春樹と未来の万博は閉幕した。

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