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アメリカ行き ② 遠ざかる未来

 救急車の中は、思った以上に静かだった。


 サイレンの音だけが、現実から切り離された空間に、一定のリズムで反響している。

 担架に横たわる未来の顔は驚くほど穏やかで、ただ眠っているようにさえ見えた。


「……未来」


 呼びかけても、返事はない。


 酸素マスクの奥で、胸が規則正しく上下している。

 それを確認して、ほんのわずかに息をつく。


「大丈夫です。意識はありませんが、バイタルは安定しています」


 救急隊員の言葉に、春樹は何度も頷いた。


 ——安定している。


 その言葉だけを、必死に胸に留める。


 病院に到着すると、未来はすぐに処置室へと運ばれていった。

 春樹は、その背中が自動ドアの向こうに消えるのを、ただ見送ることしかできない。


「ご家族の方ですか?」


 受付の女性にそう尋ねられ、一瞬、言葉に詰まった。


「……恋人です」


 思ったよりも、声が(かす)れていた。


 女性は一瞬だけ視線を上げ、すぐに端末へと落とす。


「ご家族の方に、連絡は取れますか?」


「……それが……」


 春樹は、何も知らなかった。


 未来の両親のこと。

 連絡先。

 緊急時に、誰を呼べばいいのか。


「……知りません」


 その一言を口にした瞬間、足元の床が、音もなく崩れ落ちた気がした。


「では……緊急連絡先は分かりますか?」


 言葉を探す。

 探して、見つからない。


「……分かりません」


 短い沈黙。


 女性は何も言わず、淡々と端末に視線を戻した。


 ——何も、知らない。


 恋人だと名乗りながら、彼女の人生の核心には、何ひとつ触れていなかった。


 守っているつもりで、ただ、隣にいただけだったのかもしれない。


 処置が終わるまで、春樹は待合室でひたすら時計を見つめていた。

 一分一秒が、異様に長い。


 やがて、医師が姿を現した。


「今は、状態は落ち着いています」


 淡々とした声。


「ただ……この病院では、精密な検査や、継続的な治療が難しい状態です」


「……命に、別状は」


 一瞬の間。


「現時点では、ありません」


 その一言で、ようやく息ができた。


 ——生きている。


 それだけで、すべてが許された気がした。


 だが、医師は続ける。


「今後については、専門性の高い医療機関での治療が必要になる可能性があります」


 安堵の余韻が、ゆっくりと冷えていく。


「今日はもう遅いですし……」


 看護師が、遠慮がちに言葉を挟んだ。


「ご家族の方ではありませんし、女性の患者さんのそばに、男性が付き添うのは……」


「……そばにいたいだけなんです」


 思わず、声が強くなった。


「恋人なんです。彼女が目を覚ますまで——」


「申し訳ありません」


 きっぱりと遮られる。


「今日は、お帰りください」


 正論だった。

 規則だった。

 そして、どうしようもない現実だった。


 病院を出ると、夜風がやけに冷たく感じられた。

 未来がいない夜が、こんなにも心許ないとは思わなかった。


 ——せめて、誰かに。


 春樹は震える指で、ひかりに電話をかけた。


 事情を伝えると、彼女はすぐに動いてくれた。

 万博会場。

 未来が勤めている企業のブース。

 そこで親しくなった、波多野という男。


 連絡は、さらに上へと回された。


 だが……。


 翌朝、病院を訪れた春樹を待っていたのは、空のベッドだった。


 シーツは整えられ、そこに未来が横たわっていた痕跡すら無かった。


「未来さんは、朝一番で他県の大学病院へ搬送されました」


「……どこへ?」


「申し訳ありません」


 少し間を置いて、看護師は続けた。


「ご家族、もしくは緊急連絡先として登録されている方以外には、お伝えできません」


「……恋人です」


「それでもです」


 きっぱりと、線を引かれる。


「昨日、未来さんのお勤め先から、緊急連絡先として登録されている方の情報が病院に共有されました。その方と、すでに医師が治療方針についてお話ししています」


「……その人は、誰なんですか」


 一瞬の沈黙。


「それも、個人情報になります」


 病院の廊下が、やけに長く感じられた。


 ……もう、決まっている。


 自分が知らない場所で、自分が関われないところで、未来のこれからは、動き始めていた。


 守ると決めたはずなのに。

 そばにいると誓ったはずなのに。


 春樹は、未来のいないベッドを見つめながら、拳を握りしめた。


 自分は、彼女の人生にとって、いったい何だったのか。


 答えは、まだ見えない。


 ただ一つ確かなのは……。


 未来は、彼の手の届かない場所へ、確実に運ばれていったということだった。

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