アメリカ行き ① 信じたい未来
夕暮れの万博会場は、昼間の喧騒が嘘だったかのように、ゆっくりと静けさを取り戻していた。
西日がパビリオンの外壁をなぞり、オレンジ色の光が足元に長い影を落とす。
春樹は、会場の端に設けられた待機用ベンチに腰を下ろし、深く息を吐いた。
——アメリカ。
その言葉が、胸の内で何度も反響する。
村山常務から告げられた海外赴任の回答期限。
だが、それは打診という形を取った、逃げ場のない決定事項だった。
海外子会社「T-Lab America」
研究開発部門の統括。
名目上は、副社長。
最低でも二年。
成果次第では、それ以上。
日本に戻れる保証はない。
(……行くべきなんだろうな)
春樹は、自分でも驚くほど冷静にそう結論づけていた。
待遇としては、これ以上ない好条件だった。
talina研究所本社の意思決定や社内政治に縛られず、研究テーマの選定から予算配分、人材配置まで、自分の裁量で動かせる。
これほど自由に研究に没頭できる場所は、他にない。
……正直に言えば。
胸が、わずかに高鳴ってしまった。
(……俺は、やっぱり研究が好きなんだ)
その事実だけは、否定できなかった。
そして、もう一つ。
遥は、何も言わなかった。
あの日、万博会場で顔を合わせたとき。
彼女は以前と変わらない距離感で接してきた。
責めることも、怒ることも、過去に触れることもない。
(……許された、んだよな)
彼女が許した。
ならば、自分は前に進んでもいい。
彼女の人生を、これ以上縛る理由はない。
……そう考えて、最後に残ったのは。
未来だった。
視線を上げると、少し離れた場所で未来が、来場者にパンフレットを配っているのが見えた。
小さな身体で、精一杯背伸びをして、変わらぬ笑顔を浮かべている。
だが、春樹は気づいてしまっていた。
最近、彼女は時折、ほんの一瞬だけ視線を落とし、呼吸を整えるような仕草を見せる。
誰も気づかないほど短く、さりげない動作。
けれど……。
(……無理してる)
そう思った瞬間、胸の奥が締めつけられた。
二年。
その間に、もし体調が大きく崩れたら。
そばにいられない。
駆けつけることもできない。
(……だから、迷ってる)
論理では答えが出ている。
だが、感情が追いつかない。
そんな自分を、ずっと嫌ってきたはずなのに。
「……春樹さん?」
不意に、聞き慣れた声がした。
振り返ると、未来が立っていた。
業務を終えたのか、AD証を外し、肩の力が少し抜けている。
「どうかしました? すごく難しい顔してました」
「……いや。少し、考え事を」
「また、お仕事ですか?」
冗談めかした笑顔。
けれど、その目は、どこか真剣だった。
「少し……話せるか」
「はい」
ふたりは並んでベンチに座る。
沈黙が落ちる前に、春樹は口を開いた。
「……実は」
一度、言葉を切る。
「アメリカ行きの話が来てる」
未来の表情は、驚くほど穏やかだった。
「……知ってました」
「え?」
「ひかりさんから。春樹さん、優秀だから当然ですよね」
柔らかな笑み。
その自然さが、胸に小さな棘を残す。
「……驚かないんだな」
「驚きました。でも……」
未来は一瞬だけ視線を伏せ、静かに続けた。
「春樹さん、ずっと、ここに留まる人じゃないって、思ってましたから」
責めるでも、拒むでもない。
ただ、受け入れる声。
「最低でも二年……帰れないかもしれない」
「はい」
「それでも……」
春樹は、慎重に言葉を選ぶ。
「未来の体調が、正直、気になってる」
一瞬、未来の指が膝の上で強張った。
だが、すぐに微笑む。
「……理由が、わたしのためなら」
はっきりと、言った。
「それは重いです。わたし、嫌です」
春樹は、言葉を失う。
「そんな理由で、大好きな人が夢を諦める姿を見るのは……」
未来は、ぎゅっと拳を握った。
「わたし、会えないことより、もっと辛くて……耐えられません」
そして、顔を上げる。
「行ってください。アメリカ」
迷いのない瞳。
「待ってます」
そこで未来は、ふっと力を抜くように笑った。
「……それに」
まるで思い出したみたいに、軽い調子で。
「わたし、最低でも二十年後までは生きてるみたいなので」
「……え?」
「ほら。一緒にやったじゃないですか。Pℓay!郵便局」
未来は、指で空をなぞる。
「未来からの手紙。二十年後のわたし、ちゃんと生きてましたよ?」
冗談めかした声。
けれど、その奥に、必死な何かが滲んでいた。
「だから……二年なんて、たいしたことないです」
春樹は、言葉を失った。
(……あれは)
AIが、体験者の心を掴むために作った、都合のいい文章だ。
根拠なんて、どこにもない。
(……信じる理由なんて、ない)
理性は、そう断じていた。
……それでも。
(……信じたい)
二十年後の、あの穏やかな表情を。
未来が笑う姿を。
信じていたかった。
その瞬間だった。
未来の身体が、ふらりと傾いた。
「……未来!」
声をかけるより早く、彼女は崩れ落ちた。
周囲がざわめく。
誰かが叫び、誰かが走る。
春樹は、倒れた未来を抱き留めながら、胸の奥が凍りつくのを感じていた。
——この選択は、本当に正しいのか。
答えが出る前に、遠くでサイレンの音が近づいてきた。
未来は、何も言わないまま、彼の腕の中で意識を失っていた。




