静かに軋む歯車・村山常務の決断④
夜の東京は、昼間とはまるで別の顔をしていた。
高層ビルの窓に浮かぶ無数の灯りは、感情を持たない星のように、ただ整然と並んでいる。
Talina研究所本社。
役員フロアの最上階、執務室で村山常務は誰かを待っていた……。
ノックは一度だけだった。
「……どうぞ」
入ってきたのは、遥だった。
万博会場で見せていた、どこか人懐っこい佇まいは、ここにはない。
背筋は真っ直ぐに伸び、視線は静かだった。
「お時間、ありがとうございます。村山常務」
「いい。……予定通り、うまくいったか?」
遥は小さく頷く。
「はい。未来さんの声、十分なサンプルが取れました。」
村山は目を細め、わずかに口角を上げた。
「さすがだな」
それ以上の賛辞は要らない。
互いに、その価値を理解している。
「で?」
「声帯認証システム改良版……カスハラ防止用途としてtalina研究所全社の通信手段に個人別ブロック機能を追加します」
遥の声は淡々としていた。
「特定人物の音声をAIが自動識別し、着信、通話、音声メッセージをすべて遮断。相手側には通信障害として処理されます」
「……未来くんからの電話は、完全に消えるわけだ」
「はい。春樹の端末には、痕跡すら残りません」
村山は深く息を吐いた。
「春樹は……気づくかな」
「いいえ」
遥は即答した。
「彼は合理的な説明が与えられれば疑いません。むしろ、自分の判断が正しいと思い込むタイプです」
「……昔から、そうだな」
村山の口元に、苦い笑みが浮かぶ。
しばしの沈黙。
遥は、声を少しだけ落とした。
「村山常務……あのとき……咲良さんの件、本当にありがとうございました」
村山は視線を上げる。
「本来なら、就業規則に則り懲戒免職だった。だが……お前は最終的に損害賠償請求を取り下げた。証拠は綾瀬咲良の自供のみ。物的証拠はない。……当然の判断だ」
「それでも」
遥は静かに言った。
「依願退職という形を取っていただいた。そのことを、私は一生忘れません」
その言葉に、計算はなかった。
村山は、それを理解していた。
だからこそ……話は、次の段階へ進む。
村山は立ち上がり、夜景に目を向けた。
「春樹は、アメリカへ行かせる」
遥は迷わず頷く。
「ええ。それが彼のためでもあります」
「……そして、お前のためでもある」
「はい」
遥の声は、揺れなかった。
「彼を未来さんから切り離すには、物理的な距離と、通信の断絶が必要です」
「残酷だな」
「優しさです」
遥は、かすかに微笑んだ。
「未来さんは……壊れやすい。春樹の守り方に耐えられる子じゃない」
互いに視線を交わす。
そこにあるのは、感情ではない。
利害の一致と、沈黙の了解だけだった。
……だが……。
「ひとつ、気になっていることがあります」
「……何だ」
「咲良さんです」
村山の背中が、ほんの一瞬だけ強張った。
「彼女が、本当に犯人だったのかどうか」
遥は、あくまで穏やかに続ける。
「私は……どうしても、そうは思えなかった」
沈黙。
村山は振り返らない。
「……その話は終わったはずだ」
「ええ。だから、確認しただけです」
遥は微笑んだ。
しかし、その瞳は、わずかな揺らぎも見逃さない。
「もし、別の真実があるなら。私は……いつか、知りたい」
村山は何も答えない。
だが、その沈黙が、すべてを語っていた。
(やっぱり……)
遥は確信する。
(咲良さんは、真犯人じゃない)
それ以上、踏み込まない。
代わりに、取引の言葉を置く。
「全てが、村山常務の思い通りに進んだら……そのとき、教えていただけますか」
村山は、ようやく振り返った。
「……何をだ」
「真相を。そして……綾瀬咲良が、今どこにいるのかを」
長い沈黙のあと。
「……約束しよう」
それだけだった。
「春樹には、成長のための海外派遣として伝える。拒否権は与えない」
「彼は……行きますよ」
遥は確信を込めて言った。
「正しい選択だと、信じて……」
村山は小さく頷く。
「歯車は、もう噛み合ったな」
「ええ……静かに」
遥は立ち上がり、深く一礼した。
「では、あとは私が仕上げます」
扉が閉まる。
村山は一人、夜景を見つめながら呟いた。
「……優秀な人間ほど、壊れやすい」
それが春樹に向けた言葉なのか。
遥に向けたものなのか。
あるいは、自分自身なのか。
誰にもわからない。
ただ一つ確かなのは……。
この夜、運命の歯車は、音もなく、完全に噛み合ったということだった。




