静かに軋む歯車・村山常務の決断③
灼けた風が夢洲を駆け抜け、万博特有の熱気がゆらめいていた。
だが、その中心にいるはずの春樹・ひかり・遥の三人だけは、どこか温度の異なる小さな世界に包まれていた。
遥は春樹の袖をつまんだまま、ちょこちょこと歩幅を合わせて寄り添っている。
まるで迷子防止の子どものような無邪気さ……だが指先だけが、かすかに震えていた。
(薬……もう一錠飲んでおけばよかったかも。でも……まだ大丈夫。表には出さない)
微かな不安を胸の奥へ押し込み、遥はひとつ息を整えて笑顔をつくる。
「春樹くん、ここのパビリオン、すっごく楽しめるね。可愛いのもあるし、次案内して?」
その声音には清らかな柔らかさがあり、何も知らない者なら恋人同士だと感じるだろう。
しかしひかりだけはその裏側……感情の温度差、沈んだ層まで見抜いていた。
そんな三人を、雑踏の向こうからじっと見つめる存在があった。
「……むぅ……」
「はーるーきーさーん!!」
まるでピンク色の感嘆符を撒き散らしながら走ってくる。
「未来?」
未来はほっぺたをぷくっと膨らませ、足を早める。
春樹が驚いた顔を向けると、未来は遥と春樹の距離を見て、さらに頬をふくらませた。
「だ、だめです! その……春樹さんは、だ、だ、だから……わ、わたしのっ!」
「え……」
「は?」
春樹とひかりの声が同時に出る。
遥だけは、きょとんとした顔で首をかしげた。
「あなた……かわいいね?」
「か、かわっ……!」
未来の顔が真っ赤になった瞬間、遥はにっこり笑う。
春樹に見せる子どもっぽい笑顔ではない。
ひかりが知る“大人の女”としての、穏やかな微笑み。
「春樹くんは優しいから、すぐ勘違いさせちゃうんだよ? ね?」
「お、おい……」
春樹が否定しようとしたが、未来が先にまくしたてた。
「わ、わたしは春樹さんと……!」
「未来ちゃん、落ち着いて」
ひかりがそっと肩に触れる。
(ああ……この子は、本当に知らないんだ。何も)
遥は胸の奥で、波のように感情が持ち上がるのを感じた。
罪悪感ではない。
虚しさでもない。
(……私の人生を壊した出来事を、この子は知らない)
だからこそ、静かに一歩踏み出した。
「あなたが未来ちゃんなのね、ひかりに聞いてたわ。ねぇ、少し歩かない?」
「え……?」
「大丈夫。ひかりと春樹くんは、そこで待っててくれるから」
遥は柔らかく笑い、未来の手を取って歩き出した。
未来は驚きながらも、抵抗はしなかった。
ふたりの背中を見送りながら、ひかりはわずかに眉を寄せた。
(遥……本当に大丈夫なの? 今日、薬の量……)
春樹は、遥のふだんとは違う言い回しに気づかず、ただ心配そうに二人を見送っていた。
⸻
パビリオンの裏手の木陰のベンチ。
ざわめきが遠ざかり、風の音がわずかに聞こえる静かな場所だった。
「ここなら話しやすいでしょ。座ろ?」
「あ、はい……」
未来は緊張したまま腰を下ろす。
遥は柔らかく笑ったまま、未来の正面に座った。
「さっきの……春樹さんは私のって、可愛かったよ」
「やっ……やめてください……!」
「ふふ。でもね、未来ちゃん。あなたが思ってる以上に、春樹くんは……重いよ?」
「え?」
遥は沈黙し、息を一度大きく吸い込んだ。
そして……静かに話し始めた。
「……春樹くんね、私のために損害賠償請求したの」
「……損害、賠償……?」
「うん。私が……壊れちゃった原因の精神的苦痛に対してtalina研究所に掛け合ったの」
未来の目が見開かれる。
「でもね、私は望んでなかった。特許があるからお金は困ってないし……咲良さんを追い込みたくなかった……」
その声は薄く震えていた。
「だけど、春樹くんは止まらなかった。遥のためって、突っ走って……。問題が大きくなって研究所中に広まって、咲良さんは……」
未来は言葉を失った。
遥の瞳は、笑っていなかった。
透明で、静かで、深い湖の底のようだった。
「ねぇ未来ちゃん。守るってね、時々……誰かの人生を壊すの」
未来の喉がひく、と鳴った。
「春樹さんが……?」
「そう。彼はね……罪悪感と正義感を混同しちゃうの。自分が間違ったら、人が壊れるってことに気づけない子なの」
未来の胸に、初めて重い影が落ちた。
春樹の優しさしか知らなかった彼女には、あまりに衝撃だった。
「未来ちゃん」
「……はい」
「春樹くんを……好きでいるってことはね。あの子の弱さも全部受け止めるってことなんだよ」
それはまるで、未来を試すかのような言葉だった。
未来は泣きそうになりながらも、絞り出すように言った。
「わ、わたし……でも……春樹さんを嫌いになれません……」
遥は少し目を細めた。
「そっか」
笑顔のように見えたが、その奥には複雑な色が混じる。
「未来ちゃんは……いい子だね。春樹くんは幸せになれるよ」
遥は微笑みながら身体を未来へ向け、足を組み直した。
瞳は柔らかく、しかし奥の奥では、未来の反応を鋭く観察している。
「未来ちゃん。さっきの……驚いたよね?」
「い、いえ……ただ……損害賠償って、本当に……?」
「うん。春樹くんが、私のために動いたのは事実だよ」
未来の目が少し揺れる。
「不思議でしょ?春樹くんね、理系なのに……在学中に司法試験まで受かってるの。だからかな……変に権利意識が強くて、正しさを突きつけちゃうの」
未来は困惑しながらも、春樹を庇おうとする。
「そ、そんな……春樹さんはそんな人じゃ……」
「未来ちゃん、気をつけて」
遥の声は柔らかく響く。
しばらく沈黙したあと、遥は話題を少し変えるように尋ねた。
「ねぇ……春樹くんって運動はどうなの?」
「……え?」
「ほら、あいつ、頭良くて何でもできて……顔もまぁまぁ整ってるし……チートキャラみたいなんだもん。苦手な事ってなんだろうねって」
未来はきょとんとして、少し考えた。
「運動……うーん……」
「うん」
「わたし……春樹さんとしか……えっと……その……」
頬がじわじわ赤くなる。
「経験っていう意味じゃ……比較対象がなくて……」
(あ、これ絶対まずい方向に行くやつだ)
遥の直感が警告を鳴らす。
未来はさらに真剣に考えて続けた。
「……でも……いつも……わたしのほうが……先に……」
「え」
「春樹さん……すごく……その……体力が……」
「ちょ、ちょっと待っ……未来ちゃん!?!?」
遥は反射的に未来の口を手で塞いだ。
「むぐっ……!」
遥は耳まで真っ赤に染め、ぷるぷる震えた。
「み、未来ちゃんっ……!そ、そういうこと、女の子が野外で大きな声で言っちゃダメ……!!」
「んむっ……んんーっ!」
未来がバタバタと手を振り、遥は慌てて手を離す。
「ご、ごめんなさい! だ、だって……聞かれたから……」
「わ、わたし……悪気は……その……」
「……天然だ、この子……」
遥は頭を抱えながら、しかし胸の奥がくすぐられるような感覚を覚えていた。
(この子、本当に可愛い……好きになりそう……だからこそ春樹と離れてほしい……)
遥はそっと横目で未来を見た。
未来はまだ真っ赤な顔で、指をいじりながら小さく言った。
「で、でも……春樹さん、すごく優しくて……わたしのこと……大切にしてくれて……」
その言葉は、遥の胸に小さく刺さった。
(……ああ、そっか。未来ちゃんは“恋”をちゃんとしているんだ。あの春樹と……)
遥はひとつ息を吐いた。
穏やかな微笑みをつくって見せた。
「未来ちゃん。あなた、ほんとにいい子。だからこそ……春樹くんから離れたほうがいい」
「……え?」
「本気で好きなら……あなたの心が先に壊れるよ」
声は優しい。
しかし内容は、あまりにも静かで、深くて、残酷だった。
未来の胸がぎゅっと痛んだ。
「ど、どうして……?」
「春樹くんは……ね。守ろうとする相手ほど追い込んじゃうの。誰かの人生を壊すことにも気づけない。私が……そうだったから」
未来の瞳が揺れた。
遥は続けた。
「ねぇ未来ちゃん。あなた、泣かされるよ。……私と同じように」
その一言は、未来の胸の奥深くに落ち、静かに波を立てた。
⸻
ふたりが戻ってきたとき、春樹は心底ほっとしたように声をかけた。
「遅かったな。何話してたんだ?」
「は、は、春樹さんっ!! わ、わたし……その……!」
「ん? ど、どうした?」
「な、なんでもありませんっ!!」
未来は真っ赤になり、両手で顔を覆った。
遥はくすっと笑い、春樹の袖をつまんだまま言う。
「未来ちゃん、ほんと可愛いね。春樹くん、油断してると取られちゃうよ?」
「なっ……!」
「は、はるきさぁぁん!!」
未来の叫びが万博の騒音に混じり、周囲の視線を集めた。
その瞬間だけ見れば、まるで平和な青春シーンのようだった。
……しかし。
遥の指は、袖をつまむ力をほんの少しだけ強めていた。
(未来ちゃんの声は録音できた。これで……歯車は動き出す)
ひかりだけが、そのわずかな緊張を読み取る。
(遥……あなたの復讐は、もう止まらないのね)
夢洲の熱気の中で、誰にも聞こえない微かな音が鳴った……。
静かに軋む、運命の歯車の音が。




