静かに軋む歯車・村山常務の決断②
夏の陽射しが、夢洲の万博会場に降り注いでいた。
人の波と熱気の中で、春樹は控室のソファにひとり座って、手に持つスマホを見つめていた。
『例の件、そろそろ返答を聞かせてほしい。アメリカは、お前が行くべき場所だ。村山』
「……また、督促か」
(行くべきなのは分かってる。だけど……未来を置いてはいけない)
胸の奥に苦い何かが引っかかった。
そして、あの“事件”が影となって心を縛り続けている。
(もし……遥と、また顔を合わせたら……)
そこまで考えたとき。
「春樹くんっ!」
控室の扉が勢いよく開き、光そのもののような笑顔が飛び込んできた。
「……遥?」
「ふふっ、驚いた? 今日会えるなんて思ってなかったでしょ?」
白いワンピース、揺れる黒髪。
無邪気な笑顔は昔と何も変わらない。
だが、春樹には見抜けない“計算”の輝きがそこにあった。
「なんでここに……? 関係者エリアだぞ」
「んー? 少しお願いしてみたの。……可愛い子って、案外通してもらえるんだよ?」
悪戯っぽくウインクしながら、手に持っていたパンフレットをぽとんと落とす。
「あっやば……春樹くん助けて! ほら、風で飛んじゃう前にっ」
「お前は本当に変わらないな」
「え? 褒めてる? 嬉しいな。私、変わらないのが取り柄だから」
ころころ笑う声は、昔のままの可愛い遥だった。
しかしそのすぐあと。
「遥?」
落ち着いた声が背後から響く。
振り向くと、ひかりが静かに歩いてきていた。
その瞬間……。
遥の背筋がすっと伸びた。
笑顔は変わらないまま、瞳の奥だけが深く静かに沈んでいく。
「遥……あなた、本当にここに?」
「うん。どうしても会いたかったの。ふたりに」
ひかりと話す遥は、大人びた落ち着きと、透きとおるような知性をまとっていた。
だが春樹へ振り返った瞬間……声のトーンが跳ねる。
「ねぇ春樹くん。アイス食べない? 世界のアイスが集まってるんだよ? 行こ?」
「……お前はいつも急だな」
「思いついちゃったんだもん。衝動には素直じゃないとね?」
無邪気だ。
だが無邪気すぎて、どこか演出めいている。
三人は会場へアイスを探しに向かった。
かつてのように、並んで歩きながら。
⸻
アイスを手にした遥は、スプーンを咥えながら春樹の話を聞いていた。
「つまり……アメリカに行ったら、当分戻れなくなるってこと?」
「……ああ。二年は、難しい」
春樹は小さく息を吐く。
「遥……あの時のこと、まだ俺は……」
「春樹くん」
遥はそっとスプーンを置き、春樹の目をまっすぐ見た。
「そんな顔しないでよ。謝る顔って……きみには似合わないんだよ?」
「いや……あれは俺の……」
「私はね、あの時ちゃんと傷ついたよ。でもね……傷って、時間が癒してくれるの。あなたが縛られる必要なんて、もうないんだよ?」
「遥……」
「気にしないで。私は、とっくに前に進んでるから」
その言葉は、どこまでも春樹を優しく包み込むように聞こえる。
春樹は、堪えきれず目頭を押さえた。
「ごめん……ずっとお前のことが頭から離れなかった。本当に……ごめん。ありがとう……」
ひざをつきかけ、涙をこぼした。
「春樹くん」
遥はそっと肩に手を置いた。
「あなたがそんな顔をすると……私、本気で怒れなくなっちゃう」
柔らかで優しすぎる声。
春樹は、救われたように息をついた。
(……ふふ、ほんと単純だなぁ“許した”なんて、言ってないのに)
遥は心の中だけで、冷たく笑った。
⸻
「春樹くんは、アメリカに行ったほうが絶対いいよ。あなたの才能を閉じ込めるなんて、もったいない」
「……お前にそう言われると……なんか……」
「ふふ、昔からだよ?春樹くんは、私が背中を押すと強くなるんだよ」
(強くなるんじゃなくて……私はあなたをもっと、壊すだけ)
甘い笑顔の裏に、ひかりだけが気づいていた“刃”が潜んでいた。
⸻
春樹が席を外したあと。
遥の表情は音を立てて変わった。
笑みが消え、静かな知性だけが残る。
「ねぇ、ひかり。……春樹って、ほんと鈍いよね」
(わたしは今も苦しんでる……毎日薬を飲んでいるのに……)
「遥……あなた……」
「人ってね、誰かを傷つけた時より、その自覚がない時のほうが、ずっと罪深いんだよ」
淡々とした声。
しかし凍りつくほど冷たい。
「遥……あなた何を……」
「ひかり。あなたは私の味方でいてね。春樹のこと、誰よりも知っているのは……あなたなんだから」
微笑んでいるのに、息を呑ませるほど残酷な美しさを帯びていた。
⸻
「お待たせ」
春樹が戻った瞬間。
「春樹くん! 次どこ行く?迷子にならないように……ほら、手つなぐ?」
「つなぐかよ」
「えーっじゃあ袖つかむね。ほら」
「……勝手にしろ」
「はーい♪」
明るい声が弾ける。
だがその笑顔の奥で……遥の瞳はまったく笑っていなかった。
(これは再会じゃない。復讐の、最初の一歩)
気づいているのは、世界でただひとり。
ひかりだけだった。




