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静かに軋む歯車・村山常務の決断①

 2025年……東京。

 talina研究所本社、役員フロアの最上階。


 深夜0時をまわっても、村山常務の執務室の灯りだけは消えていなかった。

 窓の外には、雨上がりの街の光がぼんやりと滲んでいる。


(……春樹。返事はまだか)


 机の上には、2通の書類が置かれている。

 海外子会社「T-Lab America」の副社長ポスト。

 春樹にとっては破格の昇進、常務としても社の未来を託す人事だった。


 だが……返答は保留のまま。


 村山は椅子に深く腰を沈め、腕を組んだ。


(やはり……あの件が尾を引いているのか……神崎遥……)


 忘れようとしても、脳裏から離れてくれない名前だった。

 かつて社内表彰を総なめにし、若くして“鬼才”と呼ばれた女性。

 営業であるにも関わらず、talina研究所の主力商品の一つである声帯認証システムを開発した立役者。


 そして……突然社を去った人間。


 あの事件は、今も社内のタブーのひとつになっている。


 犯人として直属の上司であった綾瀬咲良(あやせさくら)が辞職した。


 神崎遥は信頼していた上司に裏切られたショックで心を壊した。

 ……そして、talina研究所を退職した。


(春樹は……あの時、神崎遥の味方をしていたはずだ。……しかし、それが結果として裏目に出た。あれが春樹の心を縛っているのなら……)


 村山はペンを転がしながら、息を吐いた。


 そして、机の端に放置していたもう1通の書類を見返した。

『例の件、本日、面接をしました。心配していた精神状態は良好なようです。念の為、医師の診断書も提出させましたが、仕事をするのに問題の無いレベルに回復しているそうです。本社人事部・人事部長〇〇』


 しばらく前に伝えられていた件だ。

 元社員・神崎遥より、再雇用希望の連絡があった。

 一社員の採用に対して、常務である村山が関わる必要は無いのだが、遥に関しては特別だった。

 圧倒的な営業力と声帯認証システムを1人で作った天才的な頭脳……。そして、あの事件。

 当然ながら人事部にも遥の名は知れ渡っていた。

 疑問点は、今回の復職にあたって以前所属していた営業部では無く、技術者として再度talina研究所に貢献したいとの事だった。

 希望部署は開発部で、声帯認証研究チームもしくはAI応用基盤チームと指定してきた。

 人事部だけでは決断出来ないと対応に苦慮して村山のところに相談したわけだが、その名を聞いた瞬間、村山はただ静かに眉を寄せた。


(帰ってくるつもりなのか……神崎遥)


 彼女が去ってから、もう5年。

 社は大きく変わり、新しい才能も増えた。

 だが、声帯認証システムの核心技術の根幹にあるのは、いまだ彼女の設計思想だった。


 戻ってきてくれれば……正直、助かる。

 胸のどこかでそれを認めたくない自分がいても、それは事実だった。


 しかし同時に、村山には別の思案もあった。


(……春樹。お前がアメリカに行かない理由。それは神崎遥の事がまだ吹っ切れていないのか……)


 神崎遥が、今またtalinaに戻ろうとしている。

 その情報は、まだ春樹には伝えていない。


 伝えるべきなのか。

 それとも……利用すべきなのか。


「……はぁ……俺は嫌な役回りばっかだな」


 村山は額に手をやり、天井を見上げた。


 彼は経営トップにもっとも近い役員だ。

 つまり、“必要なら、誰かを切ることも決めねばならない”立場。


 あの時、村山は綾瀬咲良を退職させたくなかった。

懲戒処分は当然ながら、降格と異動で収めたかった。


 彼女の在職中の功績は群を抜いていたし、咲良に関して、不適正営業も一切なく、取引先の評判も良かった……。得てして営業成績優秀者は顧客からの苦情も多くなりがちだが……。


 決断したのは村山だ。


 だが、春樹の意思が大きく関わった。

(経営者は物事を俯瞰的に見ないといかん……。時には非情な決断も迫られる。あの時、俺はお前にはそれが備わっていると感じた。だから俺は甘さを捨て、お前の主張を取り入れた。それは正しい事だ。お前が責任を感じる必要は無い)


 春樹は才能の塊だ。

 AI、計算生物学、暗号化……どの領域を切り取っても、日本で彼以上の存在はそうはいない。

 世界で戦わせるべき人材。


(アメリカで学ばせねば……あいつは国内に閉じこもっていい器じゃない)


 だが……遥の存在が、その判断を狂わせている。

 村山は椅子から立ち上がり、窓際へと歩いた。


 東京の夜景を見下ろしながら、ゆっくりと瞼を閉じる。


(……春樹。数年後、俺がトップに立った時、お前には後継者として一緒にtalinaを牽引して欲しい。その実力はある!……だが……今のお前は優しくなりすぎた)


 なら……どうするか。


(……神崎遥を戻す。だが、そのタイミングはこちらが決める)


 人事資料を手に取る。

 遥の再雇用審査書類には、こう書かれていた。


 意欲充分。

 単なる復帰ではない。

 talina研究所でもう一度社会貢献がしたい。

 明確な意思表示あり。

 能力に疑いの余地は無い。


(だが、簡単に戻すわけにはいかん)


 それが常務としての判断だった。


 綾瀬咲良が神崎遥を誹謗中傷したのは全国1位の座を奪われた嫉妬心とされている。


 もし今彼女を戻せば、再び同じ炎が起きる可能性もある。


 しかし。


 春樹の背を押すには……遥の存在が決定的な鍵になる。


(春樹をアメリカに送れるのは……神崎遥だ)


 自分で思いながら、胸の奥が痛んだ。


 本来は、そんな個人の感情や関係で会社を動かすべきではない。

 だが、日本の研究機関の未来を考えたとき……春樹という“若い才能”を世界に送り出せなければ、talinaは近い将来、確実に遅れをとる。


(……春樹。恨むなよ)


 村山は、机に置いた再雇用書類にゆっくりとハンコを押した。


「……よし」


 椅子に座り直し、パソコンの前に向き直る。


 そして春樹宛の社内メールを開いた。


『例の件、そろそろ返答を聞かせてほしい。アメリカは、お前が行くべき場所だ。』


(これでいい。これしか、なかった)


 深夜の静寂の中で、送信音が小さく鳴った。


 遥が再び戻ってくることで、春樹とtalina研究所の運命が、“あの事件”の真相とともに大きく動き出す。

 そこには、村山だけが知る真実があった……。

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