遥の過去編① 誕生の前夜 ― 遥、孤独な開発②
翌週に入ってから、咲良はずっと思っていた。
……遥の様子がおかしい。
会議中もどこかぼんやりしているし、階段を上るとき足元がふらつく。
なにより、いつも明るい雰囲気をまとっていた彼女の周りから、色が抜け落ちたように精彩を欠いて見えた。
その日の夕方、咲良は支社フロアの隅で書類を整理している遥を見つけた。
顔色が悪い。髪はぼさぼさ。服はしわくちゃ。
肌は荒れ、クマが濃く、指は震えている。
……そして、ほんの少し匂いがした。
咲良は眉をひそめ、歩み寄った。
「……遥。あんた、最近どうしてんの?」
「えっ……えへへ、大丈夫ですよ……ちょっと寝不足なだけで……」
笑った瞬間、ふらりと体が傾く。
咲良は反射的に腕を伸ばし、彼女の肩を支えた。
「ちょっと!ほら見ぃ。ぜんぜん大丈夫やないやん!」
遥の体温は熱く、でもどこか弱々しい。
支えているのに、胸が苦しくなるほど軽かった。
咲良は、その肩をぐっと掴んだ。
「遥。あんた……最近元気ないし、服ヨレヨレや。肌荒れもひどいし、目の下にクマができとるで。ちゃんと寝てるんか?ご飯は?」
「し、仕事が楽しくて……つい……」
「つい、ちゃうわ!!」
声が少しだけ大きくなった。
周りの社員が気づきかけたので、咲良は遥の腕を引き、給湯室へ連れ込んだ。
「……遥。正直に言うけどな。あんた……臭いねん。たぶん、お風呂も何日も入ってへんやろ?」
「えっ……そ、そんな……!でも……研究が……」
「そんなんで営業行かせられへんわ!!!」
叱責の中に、どうしようもない心配がにじんでいた。
遥は唇を震わせ、力なくうつむく。
その姿を見ると、咲良の胸がぎゅっと痛んだ。
たまらず、彼女は静かに言った。
「遥。今日……うち泊まりに来なさい」
「え……?」
「コレは業務命令や。しっかり食わせたる。風呂も入れて、寝かす。このまま倒れられたら困るんは……うちら全員や」
遥は驚いた顔のまま固まっていたが、やがて、ほっとしたように小さく頷いた。
咲良はその肩に手を置いた。
冷たい肩だった。胸が締めつけられる。
「ほな行くで。今日はもう仕事おしまいや」
咲良の家は、清潔感のある管理者向けのマンションだ。保育園でみさきちゃんを迎えに行き、3人で一緒に帰ってきた。
3人で食事をし、みさきちゃんは咲良課長と一緒にお風呂に入ると、いち早く床についた。
久々の遥に大喜びだったが、幼い子ながらに遥の異変に気づいていたようだった。咲良課長が言い聞かせた言葉に素直に従っており、子どもなりに遥の元気の無さを察知して心配していた。
「服、洗濯出しや」
「えっ……全部ですか?」
「全部や。なんや恥ずかしがるほどの服ちゃうやろ。
はい、はよ脱いで」
「は、はいっ……!」
遥は慌てて脱ぎ、シャワーへ向かおうとして……咲良に止められた。
「……遥。今日、うちも一緒に入るからな?」
「えぇぇぇっ!?!?!?」
「文句ある?世話焼かすだけ焼かされて、ここで放置できるか。背中くらい流したるわ」
その声音はやわらかく、どこか照れているようでもあった。
遥は顔を真っ赤にしながら、風呂場へ案内された。
湯気が立ちこめる浴室。
バスタブにはお湯が張られ、洗い場の床には二つのバスチェアが並んでいた。
遥がタオルで胸元を押さえながら入ると、咲良はすでに髪をほどいて、湯気の中でこちらを向いていた。
白い肌が、湯気の光で淡く揺れる。
遥は息を呑んだ。
「ほら、座り」
「は、はい……」
咲良はシャワーを手に取り、遥の背にそっとお湯を流す。
その手つきが、思ったよりもやわらかくて……遥の肩がびくりと震えた。
「……緊張しすぎやろ。なんでそんな固まってんねん」
「だ、だって……課長、綺麗で……」
その瞬間。
咲良の手が、ぴたりと止まった。
数秒の静寂。
湯気の奥で、咲良の目だけが遥をじっと見つめている。
「……はるか」
「は、はい……?」
「……あんた……ほんまは……男より女の子のほうが好きなんやろ?」
「――っ!?」
浴室の湯気が一気に冷えたような錯覚がした。
遥の胸が急に早鐘を打つ。
脳内で何かが弾けるように、全身が熱くなる。
「そ、そんな……こと……っ」
「嘘つかんでええよ」
咲良は、ゆっくりと遥の髪を指ですくう。
そのまま手が首筋へ触れ……ぞくり、と遥が震える。
「気づいてへんと思ってたん?視線で、すぐ分かるわ。……うち、アホちゃうんやで?」
耳元で囁かれた声は、甘く、でもどこか切なかった。
遥の呼吸が乱れ、視界が揺れる。
「わ、私は……!」
言葉が出ない。
咲良の指が首筋をなぞり、耳の裏までそっと触れる。
「無理に言わんでええ。せやけどな——」
しゅるり。
咲良の濡れた髪が肩を滑り落ちる。
「……自分の気持ちに嘘つく子ほど、壊れやすいねん。うちは、あんたが心配なんや」
その眼差しは、甘いようで、どこか切なかった。
「か、課長は……嫌……じゃないんですか……?」
「嫌なわけ、あるかい」
その一言で、遥の胸がほどけた。
息を殺しながら、ぽつりと涙がこぼれた。
咲良はそんな遥をそっと抱き寄せ、額を合わせる。
「……遥。あんたが誰を好きでもええ。無理して笑わんでええ。しんどいなら……支えるくらい、うちにさせてや」
言葉は優しく、体温は温かかった。
その夜……遥は初めて、自分がひとりじゃないと知った。
翌朝。
しっかりご飯を食べ、しっかり寝て、体力を取り戻した遥は、ふと鏡に映る自分の顔を見て驚いた。
「……なんか、すごく元気になってる……」
「当たり前や。食って寝たら治るねん」
咲良は冗談めかして笑ったが、目はどこか優しい。
「課長……あの……最近避けられてるのかなって思ってて……」
「避けてへんわ。ただ……調べもんでバタバタしてたんや。管理職の宿命やな。遥のこと、ちゃんとフォローできんくて……堪忍な」
遥は胸の靄が全部晴れるのを感じた。
「課長、私のこと嫌いになったわけじゃ……」
「なるかい」
その会話の数日後。
……声帯認証システムは、ついに精度80%を突破した。
声帯認証・声紋認証は既にあるシステムだ。
……しかし、人の声は変わる。
セキュリティシステムとしては完璧で無く、単独では使えないとの認識が世間の常識となっている。
遥には、越えなければならない問題が山積していた。
①『……年齢による変化……思春期の声変わりに始まり加齢による声帯筋の変化』
②『……健康状態による変化…… 風邪などで、一時的に声帯や共鳴腔に影響を与え、声質を大きく変える』
③『…… ホルモンの変動による変化……女性の月経周 期、妊娠、更年期なども特に声に影響を与えることがある』
④『…… 感情やストレスの変化……声のトーンや話し方が変わる』
⑤『…… 疲労による変化……疲れがたまると、声がかすれたり低くなる』
⑥『…… 喫煙や過度の飲酒による変化……声帯に慢性的なダメージを与え、声質を変化させる』
声紋は指紋のように、個人固有の特徴を持つが、上記のような変化の影響を受けやすいため、本人であることを認識出来ない誤認識のケースが多い。
既存の多くのセキュリティシステムでは、声帯認証を単独で使用することは少なく、パスワード、顔認証などと組み合わせて、補完的な認証手段として利用されるのが現実だ。
……そして、遥が一番問題にする、他人が声色を似せる、なりすましが存在する。
……遥はこれらの問題をAIを駆使して全てクリアしてきた。
……せつこさんは、孫を名乗る者からの電話に騙された。
遥のシステムは、あらかじめ電話する可能性のある家族、友人等の声を登録しておき、それ以外の者が本人を騙って電話をかけてきた時や、相手が名乗らず、こちらから「⚪︎⚪︎かい?」と言って登録の名前を尋ねて「そうだ」と言った場合には、そこでAIシステムが判断する。メッセージが流れ、「詐欺の可能性が非常に高いです!一旦電話を切って、登録の電話にかけ直してください!」家族や信頼できる友人、知人に自動で転送するシステムも設定できる。
ゆくゆくは、自動で警察に相談するシステムも相談・連携していきたい。
それは遥にとって、初めて自分の力で「世界を守る」ための武器を生み出した瞬間だった。
そして咲良は、誰より先に言った。
「……よう頑張ったな、遥」
その言葉は、遥の胸に一生残る宝物になった。




