遥の過去編① 誕生の前夜 ― 遥、孤独な開発①
夜の大阪支社での通常業務が終わると、遥は定時でいち早くアパートに帰った。夜の食事もろくに取らず、一目散にパソコンの前に向かう。コンビニで買った弁当の残骸と食べかけのカップ麺が部屋中に散乱し、鼻をつく異臭が漂っていた。洗濯物もそのままで着ていた衣服も布団の上に放り投げるだけ……。お風呂にも何日も入っていなかった。
……今の彼女の表情からは、普段の笑顔は消えていた。あるのは、集中と決意と、ほんの少しの焦り。
「……違う。これじゃ、偽装に対抗できない……」
深夜遅く、暗闇を照らすモニターの光が、寝不足の目に刺さる。
声帯データの波形が何度も何度も画面を点滅する。
AIモデルは動く。だが、精度が安定しない。
椅子の上で膝を抱え込み、遥は唇を噛んだ。
(もし……これが完成してたら。せつこさんは、あんな悲しい思いをしなくて済んだのかな)
胸に突き刺さるのは、あの日のジムで聞いた噂話。
「旦那さんの残したお金、全部いかれたって……」
あの瞬間のショック……胸がぎゅうっと潰れるような痛み。
自分の無力さ。
守れなかった後悔。
(……もう二度と、誰にも、そんな思いをさせたくない)
その純粋な祈りだけが、遥を机に縛りつけていた。
時間は午前1時を過ぎている。
眠い。肩が痛い。視界が揺れる。
けれど、手だけは止まらなかった。
「……声って、本当に個性が出る……偽れないものがある……だから……だから絶対に、詐欺から守れる武器になる……」
まるで自分自身を励ますように、小さく声に出す。
画面には、一度ボツにしたアルゴリズムが並ぶ。
せつこさんの笑顔が脳裏に浮かんだ。
(……あのとき、もっと頼ってもらえる人間になりたいって思ったんだ)
目が熱くなる。
それを手の甲でぬぐって、またキーボードに指を置く。
深夜の部屋の中で聞こえるのは、カタカタという打鍵音だけ。
しかしその静寂の中で、遥は小さく震えていた。
(……咲良課長、最近……なんか、私に冷たい。いや、冷たいというより……何かを隠してるみたいで……)
その違和感は、ここ数週間ずっと彼女の胸にひっかかっていた。
会議で目を合わせてくれない日。
退社のタイミングをなぜかずらされる日。
そして、業務資料を渡すときの、ほんの一瞬の……寂しそうなような、怒っているような、複雑な表情。
(……私のこと、嫌いになっちゃったのかなぁ……)
そんな考えが頭をよぎり、胸がきゅうっと痛んだ。
遥は、人一倍人の気持ちに敏感だ。
だからこそ、少しの変化にも傷ついてしまう。
けれど……その痛みは、この手を止める理由にはならなかった。
自分を救ってくれた誰かのために努力するのではない。
誰かの痛みを知ったからこそ、自分にできることをしたい。
ただその一心だった。
「……うん……これなら……」
何度目かのパラメータ修正をすると、波形が徐々に整っていく。
声帯認証システムが、ようやく形になり始めていた。
(お願い……動いて……!)
実行ボタンを押す指が震える。
画面が黒くなり、白い文字が流れ始め……結果が表示された。
『識別精度:78.4%』
「……っ!」
肩の力が抜け、その場で机に突っ伏しそうになる。
まだ80%に届かない。
でも、この一週間ずっと70%前後で停滞していたのだ。
壁を一枚、確かに越えた手応えがあった。
まるで、誰かが背中をそっと押してくれたみたいに。
「……せつこさん……見ててね……」
ぽつりと、声がこぼれた。
涙が一粒、キーボードに落ちる。
だけど、今の涙は悔しさじゃない。
希望の涙だ。
時計を見ると、午前3時10分。
さすがに身体が限界で、まぶたが勝手に落ちていく。
最後に保存ボタンを押し、遥は椅子の背にもたれた。
(……明日もやろう。必ず、完成させるんだ……)
……この孤独な深夜の努力が、日本の、いや、世界の詐欺被害の歴史さえ動かすことになる。
そして何より、遥自身の運命を大きく変えていく。
そのことを、まだ誰も知らなかった。




