第9章 万博、動き始める歯車 ①
未来と関係を結んだ翌日から、俺の世界は静かに変わり始めた。
万博会場に戻り数日経ったが、talina研究所のブースは終盤に向けて日を追うごとに混雑さが増してきていた。
夏の風がパビリオンの旗を揺らし、人々のざわめきが波のように押し寄せてくる。
いつもの俺なら、同僚とは最低限の挨拶だけ交わして、黙々と持ち場へ向かっていたはずだ。
他人と必要以上に関わらない。
……そのはず、だった。
「空野くん、おはよう! 昨日のフォロー、本当に助かったよ!」
同僚の岩田が手を振りながら近づいてくる。
以前の俺なら「どうも」と軽く返すだけだった。
なのに今日は……。
「おはよう。今日のスケジュール、共有しておくよ」
気づけば、俺は自然に岩田の隣に立ち、資料を見せながら話していた。
人に声を掛けることが普通のように感じる。
「空野くんさ、最近めっちゃ話しやすいよな」
「ほんと! 前みたいな壁がなくなった感じ」
「昨日も相談したらすぐ的確に返してくれたし。頼りになるよ」
未来と結ばれたあの日から、胸の奥にこびりついていた暗い影が、少しずつ溶けていったのだ。
未来の温度は、俺の世界の温度を変えた。
「春樹さん!」
ふわりと風をまとって、未来がブースのほうから駆けてくる。
その笑顔を見た瞬間、周囲の空気まで柔らかくなる気がする。
「今日もよろしくお願いします!」
「こちらこそ」
未来は弾む声で言い、ひかりのほうへ向き直った。
「ひかりさん、今日の英語アナウンス、わたしも手伝います!」
「ありがとう未来ちゃん。助かるよ」
未来のブースとtalina研究所のブースはあの日から、自然に協力体制が生まれていた。
トラブルの日……村山常務が帰る際に言った言葉。
「お互いの会社の壁は取っ払え。万博は“人と人”を繋ぐ場所だ」
彼は細かい指示は出さない。
けれど、環境だけをさりげなく整える。
その一言で、皆が自分たちの頭で動き始める。
いつの間にか、互いのスタッフが手を貸し合い、未来のブースとtalina研究所のブースだけで無く、このパビリオンの中の全てのブース同士が、ひとつのチームのように動くようになっていた。
……あらためて、村山常務の力は凄いと思う。
そんなとき……。
人混みの奥から、甲高い泣き声が響いた。
小さな男の子。
イタリアの国旗の帽子をかぶり、涙で顔がぐちゃぐちゃになっている。
「迷子ね……!」
ひかりが駆け寄り、英語で声をかけた。
「Are you okay? What’s your name?」
しかし少年はさらに強く泣き出す。
「No… inglese… mamma…!」
「英語じゃない……イタリア語?」
ひかりが困ったように俺を見る。
俺もイタリア語はわからない。
インフォメーションに連れていくか……そう判断しかけた、その瞬間。
「Ciao, piccolino… va tutto bene. Io sono Mirai.」
未来だった。
未来が少年の前にしゃがみ込み、優しい声で語りかける。
その瞬間——。
泣き声が、ぴたりと止まった。
「……Mirai……?」
「そうそう、未来。ママはきっと近くにいるよ。どこではぐれたの?」
「Lì… tante persone… mamma è sparita…」
「そっか。じゃあ一緒に探そっか。大丈夫、大丈夫」
未来は少年の手をそっと握る。
「春樹さん、ひかりさん、行きましょう!」
未来のイタリア語はあまりにも自然で、俺もひかりも目を丸くした。
パビリオンの中を数分探すと、
焦った様子の女性が声を上げる。
「Marco!!」
「Mamma!!」
母と子が抱き合い、女性は未来に何度も頭を下げた。
「Grazie… grazie mille…!」
「Prego! 迷子にならなくてよかったです!」
未来が笑う。
その横で、ひかりがつぶやく。
「未来ちゃん……ほんとすごいね……」
「へへっ、たまには役に立ちました!」
未来の笑顔は、太陽みたいだった。
……未来という人の“底なしの優しさ”に、
俺はまた心を奪われていた。




