博物館明治村 ③
宿に着いたのは、夕暮れが群青色に溶けはじめたころだった。
明治村を歩き回った疲れが足に残っているはずなのに、未来は部屋に入った途端、ぱっと花が咲くみたいに表情を明るくした。
「わぁ……!畳の匂いって、すき……」
彼女は靴を脱ぎながら、まるで新鮮な空気を胸いっぱい吸いこむように深呼吸した。
その仕草すら、どこか子どものようで、でも大人の女性らしい可愛さもあって、俺は気づかれないように目を細めた。
未来のこういうところが、本当にたまらない。
もともと整った顔立ちなのに、本人は自覚がない。
肩にかかる柔らかい黒い髪は光を受けると少しだけ薄茶色に見える。
スタイルも驚くほど良く、華奢なのに曲線はしっかり女性的で、歩くたび服のラインがふわりと変わる。
なのに、未来自身はまったく気にしていない。
その無防備さが、逆に危なっかしくて、可愛くて、守りたくなる。
未来は畳に座り込み、手のひらで畳をすりすりして「これ、好きなんですよねぇ……」と笑った。
その瞬間、ふわっと香ったのは……未来の匂い。
特別な香水でもない。
けれど、未来自身が持つ、ほのかな甘さと、やさしい石けんの匂いが混ざったような香り。
……未来の匂いは、恋人の匂いというより、自分の生活に自然と溶け込んでいく匂いだった。
未来といると、家にいるような安心感があるのは、きっとこのせいだ。
匂いは誤魔化せない。
人の本音みたいなものだ。
未来の匂いは、優しくて、あたたかくて、どこか懐かしい。
俺はその匂いが、気づけばどうしようもないほど好きになってしまっていた。
夕食を終え、ふたりで明治村の話をしながら団らんし、風呂に入り、部屋に戻ったころには夜の虫の声が窓の向こうで響いていた。
そして、自然な流れで……未来が、俺の隣に座った。
未来は指先をもじもじ動かしながら、でも逃げようとはしなかった。
「春樹さん……えっと……」
「無理しなくていいから」
「無理じゃ……ない、です」
ほんの数秒の沈黙。
そのあと、未来はすごく頑張った顔をして、俺を見上げた。
「……だって……今日、いっしょに眠りたいって、思っちゃったので……」
その言葉に、俺の胸は跳ねた。
未来を優しく抱き寄せたとき、
未来の髪が頬に触れ、あの匂いが一瞬で距離を消していった。
はじめて触れる未来の身体は、驚くほど温かくて、柔らかくて、壊れそうに繊細で。
未来の指は最初すこし震えていたけれど、途中からぎゅっと俺の手を握り返してきた。
未来の呼吸……小さな声……すべてが、胸の奥でほどけていくように感じた。
そして……しばらくして。
未来は、俺の胸に頬を押しあてながら、
なぜか、必死に言葉を探すみたいに、もぞもぞ動いた。
「……あ、あの……春樹さん……」
「ん?」
「えっと……その……えっちって……」
未来は、恥ずかしさで顔どころか耳まで真っ赤にしている。
「……すごく……あったかかったです……」
「……あったかかった?」
「はい……なんか……春樹さんそのものって感じで……」
「うん?」
「えっと……やわらかくて……でもちゃんとしてて……なんていうか……生きてるってかんじで……」
あまりに天然で、あまりに可愛くて、俺は声を出さずに笑ってしまった。
「もうっ!笑わないでください……!」
「ごめん。でも、未来らしくて可愛いよ」
「も〜〜っ……!」
未来は布団をかぶってしまったが、布団の下から聞こえる声は、どう考えても嬉しそうだった。
しばらくして、布団から少しだけ顔を出す。
「……あの……つぎ、春樹さんの番です」
「俺の番?」
「はい……感想……言ってください」
そう言って、未来は照れながらもにこっと笑った。
こんなの、好きになる以外あるだろうか。
「未来は……」
「……ごくり」
「……すごく、可愛かった」
「~~~っ!!」
未来はばたんと布団に潜り、枕に顔を埋めてもぞもぞ動く。
「可愛かった……って……なんですか……もう……」
「そのままの意味」
「……やさしく言うの、ずるいです……」
俺は未来の背をなでながら、布団の上から抱き寄せる。
未来は目だけを出しながら、小さな声でつぶやいた。
「春樹さんに……触られると……なんか……全部安心するんです」
「うん」
「怖くないし……いやじゃないし……むしろ……落ち着くっていうか……」
未来はぽふっと俺の胸に倒れこんだ。
「……未来の匂い、すごく好きだよ」
「え?わ、私の匂い……?」
「生活に溶け込む感じ。帰ってきたって感じがする匂い」
「……えへへ……じゃあ……たくさん嗅いでください」
その言葉があまりに純粋すぎて、俺は思わず未来を抱きしめ直した。
未来はそのまま、俺の胸の上で指先を動かしながら……眠りに落ちる直前みたいな、柔らかい声でささやいた。
「春樹さんといると、すごく……すごくしあわせなんです」
「俺もだよ」
「……じゃあ、明日の朝も……起きたら、まずぎゅって、してくださいね……?」
「もちろん」
未来はそのまま、安心した顔で眠った。
俺は、未来の寝息と、ほんのり甘い匂いに包まれながら、
この夜のことを絶対に忘れないと心に誓った。




