ips細胞 ②
パビリオンの中、未来の肩は少しだけ強ばっている。
通路を抜けると、目的の展示が現れた。
「……ここだ」
そこで、未来の足が止まった。
未来は小さく息を呑み、未来の目はそこに釘付けになった。
ips細胞から生まれたips心臓……約1センチの小さな心臓……。
人工の心臓がとても小さく鼓動していた。
……心臓の鼓動音が聞こえる。
その瞬間、未来の目から涙がすっと溢れた。
堰を切ったように泣くのではなく、静かに、気づいたら涙が落ちている……そんな泣き方だった。
未来は唇を震わせながら呟く。
「来るの、怖かったんです。でも、知りたかった。希望があるのか、ないのか……期待しすぎちゃダメだって思ってるのに、期待してしまう自分もいて……」
涙がぽた、ぽたと床に落ちる。
「生きたいって……思うんです。普通に……ただ、普通にです。結婚して、誰かと笑って、ご飯食べて、歳をとって……夢みたいなことじゃなくて、それだけでいいのに」
その言葉を聞くのが苦しかった。
未来の望みはあまりにも当たり前で、あまりにも手が届きにくい。
俺は声をかけたいのに、何を言えばいいかわからない。
「大丈夫」なんて無責任なことは言えない。
「希望はある」なんて都合の良い慰めも言えない。
沈黙のままではいけないとわかっているのに、声が出ない。
そんな俺の袖を、未来が弱く掴んだ。
「空野さん……いてくれて、よかった。
一人だったら……私はきっと、この展示、最後まで見れませんでした」
その言葉は、優しさのようで、刃のようでもあった。
“俺だからよかった”
そう思わせてはいけない。
未来の心に依存されれば、未来をもっと苦しめる。
それなのに。
未来は涙で滲んだ目で笑った。
「……ありがとう。本当に……ありがとう」
その笑顔を見てしまった瞬間……離れなければいけないはずの気持ちが、離れてほしくない感情へと形を変えていくのを感じた。
心の中で警報が鳴る。
……この距離は危険だ。
……未来のためにも距離を置くべきだ。
……なのに、離れられない。
葛藤が胸に渦を巻き、呼吸が乱れそうになる。
未来は涙を拭いながら言った。
「私、もっと諦めなきゃって思ってきたのに……
今日みたいに幸せだと、諦めるのが余計に怖くなります」
俺は思わず、抑えきれずに言葉を返した。
「諦める必要なんてないだろ」
未来が驚いて顔を上げる。
「誰が決めたんだよ。遅いとか、希望が少ないとか……全部ただの数字や確率だろ。生きたいって思ってる限り、終わりなんてまだ来てない」
未来は息を呑む。
自分でも驚くほど強い声が出てしまった。
「逃げたっていいし、泣いたっていい。迷っても、弱くなってもいい。それでも……生きたいって思う自分まで否定する必要はない」
言いながら、俺の中にも気づきが刺さる。
“未来を救いたい”
そう思っているのは、もはや同情ではない。
……好きになってしまったんだ。
その事実を自覚した瞬間、世界が音を立てて崩れた気がした。
好きになってはいけない相手を、好きになってしまった。
未来は泣きながら笑う。
「……そんなふうに言ってもらえるなんて、思ってなかったです。今日……来てよかった。空野さんと来られて……本当に、よかった」
涙の跡が残る顔で笑う未来は、綺麗で、脆くて、愛おしかった。
なのに……その笑顔は俺を追い詰める。
この距離のままでは未来を幸せにできない。
けれど離れたら未来はまた傷つく。
答えのない矛盾の中で、胸が痛む。
「……行こう、次の展示」
未来は泣き笑いのままで頷く。
「はい」
それは、救いを求める人の笑顔だった。
そして俺は……救えるほど強い人間じゃない。
パビリオンの光の中へ歩き出しながら、
俺の胸の中には、たったひとつの恐ろしい確信が生まれていた。
このままじゃ、いつか未来を傷つけてしまう。
それでも離れられない。




