未来の約束 ④
階段を上りきった瞬間、視界がふわっと開けた。
大屋根リングの上は、海と空の境目がどこか曖昧になるほど眩しくて、景色全体が光をまとっているように見えた。
「……わぁ……」
未来は小さく息を漏らした。
その声は驚きと嬉しさが混じっていて、まるで子どもみたいに素直だった。
未来は手すりに駆け寄ると、海を見下ろしながら嬉しそうに目を輝かせた。
「すごい……! ほんとに広いんですね。なんだか、屋根じゃなくて、空の上に立ってるみたいです」
「だな。たしかに“展望台”ってより“空”って感じだ」
「えへへ、空野さんの名前みたい」
「……偶然だろ」
照れくさくてつぶやくと、未来はくすっと笑った。
そんな風に笑う声を聞いているだけで、海の風よりずっと心地よかった。
「……じゃあ、付けますね」
未来は袋から取り出したピンパッジを服に付けた。
「今日、一番嬉しかったのは……一緒にご飯を食べた時間です。
ハーリング、半分こしてかじりあって……同じ味を一緒に驚けたの、すごく嬉しかったから」
未来は胸元にピンバッジを留めながら言った。
その頬は風でだけじゃなく、少し赤くなっている。
「……新垣さん」
名前を呼ぶと、未来は目を瞬かせた。
その表情を見たら、何か返さなきゃいけない気がして……。
「俺も……楽しかったよ」
それしか言葉が出なかった。
未来の目が、ぱっと嬉しそうに緩む。
「ほんと、ですか?」
「ああ」
「よかったぁ……」
未来はほっと肩を落とし、胸の前で両手をぎゅっと握った。
その柔らかい表情を見ていると、もっと何か言いたくなる。でも言葉が浮かばない。
そんな沈黙を破ったのは、未来の急な声だった。
「……あ」
未来はふいに動きを止め、視線を一点に固定した。
大屋根リングの縁を見下ろすような角度。
そこには、屋根に立つ有名キャラクターの巨大オブジェ。
遠く淡路島の方向を指差している。
未来はそのパビリオンを見つめたまま、まったく動かない。
「……どうした?」
返事はない。
息をしているのか不安になるほど、未来はじっと固まっていた。
「新垣さん?」
呼びかけると、ようやく瞬きをして、笑顔……の形だけを作った。
「……ごめんなさい。ちょっと、ぼーっとしちゃいました」
声が小さすぎた。
さっきまでの弾むような声じゃない。
「疲れたか?」
「いえ……違うんです。ただ……」
未来は言いかけて口をつぐむ。
胸元のピンバッジにそっと触れ、目を伏せた。
「行きたい場所があるんです。でも……怖いんです。
行けば、期待外れで……治らないって、わかってしまうかもしれないから」
その言葉は、海風よりずっと弱く震えていた。
未来の病気のこと。
iPS細胞の心筋シートの展示を見たいという希望のこと。
だけど、こんなふうに“怖い”と口にした未来を見るのは初めてだった。
「……無理に行かなくてもいいんだぞ」
気休めでも偽善でも、その言葉しか出なかった。
未来は首を横に振った。
「行きたいんです。ちゃんと知りたいんです。でも……期待して、期待した分だけ苦しむのが怖いんです」
風が二人の間をすり抜けていく。
笑顔ばかり見てきたせいか、その震えが痛かった。
思わず手を伸ばしかけて……
寸前で止めた。
大切にしてしまったら、勘違いさせてしまう。
特別な距離になってしまう。
あとで未来が傷つく要因になるのは、避けなきゃいけない。
頭ではそう理解していた。
でも、胸の奥がきゅっと締め付けられる。
「……行こう」
自分でも不思議なくらい静かな声が出た。
「新垣さんが怖いなら、俺が隣にいる。知るためでも、逃げるためでも、立ち止まるためでもいい。選ぶのは新垣さんだ。俺は、その横にいるだけだよ」
未来は大きく見開いた瞳でこちらを見つめた。
涙にはなっていない。だけど……揺れている。
「空野さんは……ずるいです」
「え?」
「そんな言い方されたら……一緒に行きたくなるじゃないですか」
笑っているのに、今にも泣きそうな声だった。
「……ありがとう。ほんとに、ありがとう」
未来は小さく頭を下げた。
その仕草が胸に刺さった。
守りたいと思ってしまうほどに。
……でも、それは今だけだ。
未来の病気のことや期待や希望を背負う役になってはいけない。
感情で距離を詰めてしまったら、未来のためにならない。
わかっているのに。
「行きましょう。……大切な場所へ」
未来が顔を上げる。
そこには、涙でも絶望でもない、意志のある表情があった。
風が吹き、未来の胸元のピンパッジがかすかに揺れる。
その先へ進むための階段はすぐ目の前にあるのに、
俺の心だけが少し、後ろに引っ張られていた。




