オランダ館 ③
館内に一歩足を踏み入れると、ひんやりとした空気とともに、スタッフの明るい声が響いた。
「オランダは“水と共に生きる国”なんです。水が無いと困るけれど、多すぎても困る。まるで……人間関係みたいでしょう?」
軽いユーモアに、周りから小さな笑いが起きる。
未来も、少し肩を揺らして笑った。
さっきまで胸を押さえていた人とは思えないほど、柔らかくて自然な笑顔だった。
案内のあと、俺たちは白いオーブを一つずつ手に取り、暗がりの展示エリアへ進んだ。
オーブは壁の展示場所に触れるたびに色が変わり、床や壁に淡い光が反射して揺れる。
「あ……!」
未来の声が、小さく弾けた。
光に染まる未来の横顔は、まるで水面に映るように澄んでいて、少女のように無邪気だった。
色が変わるたび、目を瞬かせ、オーブをそっと覗き込む。
……この人の“好き”は、本当に真っ直ぐなんだな。
そんなことを思いながら薄暗い展示を進むと、視界の奥に、ショップのまばゆい光がちらりと見えた。
未来の肩が、ほんの少しだけ跳ねる。
「空野さん……あっちの奥、ショップなんです。
展示を出たら行けるんですけど……」
声は控えめなのに、嬉しさが隠しきれていない。
「うん、わかってるよ。順番に回ろう」
そう言うと、未来は照れたように頷いた。
展示に目を向けるけれど、どこか落ち着かない。
でも、ひとつひとつ真面目に見て、そっと感嘆の息を漏らす。
ショップの近くに来るにつれ、未来の歩幅は少しずつ速くなっていった。
そして……展示を抜けた瞬間。
「……あっ……」
未来の声が震えた。
ショップの壁、その棚。
丸い受け皿が並ぶ中にあるはずの“あのぬいぐるみ”がなかった。
未来は立ち止まり、言葉を失う。
「……ない……」
ただその一言に、どれほどこの瞬間を待っていたのかがすぐ分かった。
その声は、驚きよりも、“届かなかった願い”に似ていた。
「新垣さん、そんなに好きだったんだな、その……ぬいぐるみ」
問いかけると、未来はゆっくりこちらを向いた。
「……ぬいぐるみ、というより……」
小さく深呼吸し、胸に抱えたスタンプ帳を指先で撫でる。
「“このキャラクター”が好きなんです」
その言い方は、“物”ではなく“想い”を語る人の声だった。
「私、小さい頃……初めてのお小遣いをもらったときに……」
未来の目が少し柔らかくなる。
「まわりの子はお菓子とかシールを買ってて……。
でも、私はどうしても欲しいものがあって」
「……それが?」
「郵便局の記念切手でした。このキャラクターの……」
胸の奥がふっと熱くなる。
「その時、郵便局のお姉さんが言ってくれたんです。
“オランダの作家さんが描いたんだよ。世界にはあなたの知らない場所がたくさんあるんだよ”って」
未来は少し恥ずかしそうに笑う。
「それがすごく嬉しくて……。
“いつか自分で見に行けたらいいな”って、ずっと思っていたんです。
だから、このぬいぐるみは……小さい頃の私の“続き”みたいなもので」
未来は棚の空白を見つめながら、静かに言った。
「今日……やっと連れて帰れると思ってたんです。
記念切手の“今の形”として」
その笑顔は、泣きそうで、それでもちゃんと笑っていた。
幼い日の自分を抱きしめてあげるような、優しい笑顔。
……こんなふうに“好き”を守れる人がいるんだ。
それが、たまらなく眩しかった。
「でも……買えなかったのも“縁”ですよね」
未来はほっとしたように微笑んだ。
「今日のこのことも、“宝物”になります。
だって……空野さんと一緒に見た景色なので」
優しい声だった。
何かを失ったはずなのに、未来は何も失っていない。
むしろ、今日という日を
“未来へつながる思い出”として抱きしめようとしていた。
そんな彼女が……俺にはどうしようもなく愛しく思えた。




