大学生
2085年1月 神奈川県大浜大学
冬の寂しげな夕日が差し込む大学の研究室で、今にも滑り落ちそうな気の抜けた状態で椅子に座る上田李依は深くため息をついた。
上田は大学4年生で、もうすぐ卒業だというのに未だに就職先が決まっていなかった。教授は卒論を評価して大学院にいくことを勧めてくれたが、あまりやる気は出なかった。
上田の研究室は、2年ほど前まで『神経伝達による機械操作』をテーマに精力的な研究を行っていた。これはバイオマシンの基礎となりNCBMの概念へとつながる重要なものだった。しかし、その研究の中心となっていた教授が、研究テーマとともに人材も含めて国防省バイオエレクトロニクス研究所へと移ってしまった。その後新任の教授がきたが研究テーマは大きく変わってしまったのだ。
上田は卒論では前任教授の研究テーマを引き継いでいたが、今の環境ではそのまま大学院で同じ研究を続けることは難しいだろうと思っていた。
「あ~あ、もうあと2年早かったらなぁ。速水先輩みたいに教授に引き抜いてもらえたかもしれなかったのに」
上田は机上の散らばった論文の隙間におかれた冷えきったコーヒーを飲み干すと力なく立ち上がった。
「かえろ」
コーヒーカップをシンクで洗うと、鞄を肩にかけ研究室を出た。
ドアの横にあるネームプレートを見ると、上田以外全部裏返っており、教室に残っているのは自分だけだった。上田は自分のネームプレートを裏返すと、薄暗い廊下を出口に向かって歩き出した。
就職の決まった学生たちは、最後の学生生活を楽しんでいるか、早々と就職先に出向き仕事を覚えているかのどちらかで、研究室に毎日出てくるものはいなかった。
世の中は一見平静を装っているものの、1年先もどうなるのかわからない状況の中で、それでも人は今の生活が続くことを期待して連綿と社会の営みを続けて行くのだろう。
こんな世の中で、就職したって意味ないよね...、上田はそうやって自分のおかれた状況を納得させようとした。
バイトで生活してもいいか...。
研究棟を出て外灯の点き始めた駐車場に行くと、褪せた黄色の小さな車のドアを開け、助手席に鞄を投げ込むと運転席に乗り込んだ。
この車は上田が大学2年のときにバイトで貯めたお金で買った20年ほど前の中古のEVだった。買った当初からよく故障し、その都度自分で直し乗り続けていた。バッテリーは劣化し航続距離は極端に落ちていたが、アパートと大学を往復するだけの生活には全く問題なかった。
ダッシュボードにあるメインスイッチに触れると正面の液晶モニターにメーターが浮かび上がり自動でヘッドライトが点灯した。シートベルトを締めアクセルを踏む。
「?...」
車は全く動く気配がなかった。
「またか」
上田は軽くため息をつくと、コラムカバーの下に手を伸ばし手探りでコードを引っ張りだした。そして鞄から取り出したスマホに接続した。
アプリを立ち上げ、しばらく画面を凝視する。
「アクセル制御ユニット...、またか」
スマホを助手席におくと、足下の右サイドパネルにあるレバーを引きボンネットのロックを解除し、すぐに外に出ると慣れた手つきでボンネットを開けた。
外灯の明かりでかろうじてボンネット内が確認出来る。
上田は運転席側のバルクヘッドにある10センチ四方ほどの薄いボックスの固定フックを外し引っ張りだすと、つながったコネクタを引き抜き車体から分離した。
運転席に戻りルームランプの下でボックスのふたを開ける。
「ああ、またコンデンサーがパンクしてる」
ボックスを助手席に放り投げると、すぐに外に出て今度はトランクを開けた。トランクの中は普通の人が見たら何やら分けのわからないがらくたが乱雑に詰め込まれていた。
「あった」
上田が見つけたのは先ほどエンジンルームから取り出したボックスと同じものだった。
上田は車が壊れるたびに自分でパーツを交換し、壊れたパーツは修理して次の故障に備えて車に積んでいたのだ。他人から見たらゴミが積んであるようなトランクルームも、上田にとっては車を動かす上でとても重要なアイテムの山だった。
ボックスを手に取ると急に背後で声がした。
「あの、ちょっとお時間よろしいですか?」
振り返ると学生らしい男性がA4ほどの封筒を持って立っていた。
「なんでしょう?」
上田は警戒しながらそう言うと、トランク内の武器になりそうな工具を手探りで確認した。
「これから先、人類はどうなってしまうのかとっても不安ですよね。なぜ、こうなってしまったのかあなたは理解できますか?」
「はぁ?」
上田は興味なさそうな声を出したが、男性は構わず続けた。
「すべては神がお与えになった罰なのです。神はお怒りになってケルベロスを召喚なさったのです」
ああ、学生の中にも入り込んでるんだ。上田は街中でもよく聞くその言葉にうんざりした。
「祈りましょう。私たちと一緒に祈ればきっと救われますよ」
学生はそう言うと封筒からパンフレットを取り出し上田に渡そうとした。
「あの、ちょっと今忙しいので」
上田はそう言いながら手に取った30センチほどのレンチをわざと学生に見えるようにした。
「あ、申し訳ありませんでした」
工具を見た学生はそのままそそくさと離れていった。
ついていったら最後、お金を搾り取られるんだろうな、どこかのSNSで読んだことを思い出した。
学生が完全にいなくなったのを確認すると、手に持っていたレンチをトランクに放り込み、先ほどのボックスを持ってエンジンルームに戻った。手慣れた手つきで配線のコネクタを差し込みボックスを取り付けると、ボンネットを閉じ運転席に座った。
コラムカバーの下につながったままのスマホを見ると、先ほどまで出ていたエラーのコードは消えていた。
「これでいいでしょ」
スマホからコードを外し、コラムカバーの奥にコードを押し込んだところでスマホの着信音が鳴った。
画面を見ると知らない番号だった。少し躊躇する。
「はい...」
電話には出たが自分からは名乗らなかった。知らない相手にはこの方がいい。
「上田さんですか...」
聞き覚えのある声。
「わたくし、速水と申しますが」
「速水先輩!」
思いがけない人からの電話に驚いた上田の声は、少し裏返っていた。
速水は上田が2年生でこの研究室に入ったときに、大学院生として在籍していた。女性が二人きりということもあって、速水は上田のことを気にかけるようになり、実験の仕方などを詳しく教えた。それに応えるように上田は速水の実験を進んで手伝ったりした。実験で夜遅くなったりしたときは、いつも速水が上田に食事を奢っていた。
ある日、速水の車で一緒に食事に出かけたとき、路上で車が動かなくなった。そのとき、どうなるんだろう?と不安がる上田をよそに、速水はいとも簡単に修理し、いつものように食事をすることができた。上田が自分の車の修理をするようになったのは、こんな速水のことがきっかけになっていた。
「今、電話してていいかな?」
お互いの正体が分かったところで、速水は以前のしゃべり方に戻った。
「大丈夫です」
「卒論読んだよ。『無接点神経接続におけるハイスコア因子の遺伝的特徴』。いいところに目を付けたね。うちの所長も興味津々だったよ」
「あれは、ただ先輩たちが残したデータを使って別の解析をしただけで...。でも、どーしてあたしの卒論が先輩のところに」
「山形先生が送ってくれたんだよ」
「うちの教授が」
ああ、そうか、それなりに気にかけてくれていたんだ。上田は山形教授の顔を思い浮かべながらそう思った。
「あ、ところで今何してたの?」
「また車が壊れたので、修理して、ちょうど直ったところです」
「ちょうど良かった。その腕を見込んで、うちで働かない?」
「え?」
上田は何かの聞き間違いだと思った。
「もう就職先決まっていたなら、うちでなんとかするから。所長直々のお誘いだよ」
上田は思わず自分のほっぺたをつねっていた。
人ってこんなとき、やはりほっぺたをつねるんだ...、上田はそんなことを考えながら、反対のほっぺたもつねってみた。