医学生
2083年1月 中央国立大学医学部
200人ほどが収容できる階段教室の壇上横には『特別講演バイオマシンの歴史と未来』と書かれた題目が貼られており、座席には80人ほどの学生が思い思いの場所に座って講演が始まるのを待っていた。
最前列から3列目の一番端の窓際には、頬杖をつきながらぼーっと外を見ている女学生がいた。
「もうすぐ卒業なのに、なんだかお医者さんのイメージが変わっちゃったなぁ・・・」
医学部6年の彼女は現場での研修も終わり、あとは国家試験に受かれば新米医師としての第一歩を踏み出せる状態だった。しかし、その進路に不満を持っていた。
50年ほど前からAIの技術進歩は凄まじく、社会全般に応用されてきた。それは医学の分野にとっても例外ではなく、診断、治療方針の決定、治療、さらには手術までAIが行うようになっていた。少し前までは、まだAIの苦手なところを医師が補っていたが、今ではそれもほとんど必要がなくなり、医師はAIの行いに異常がないか確認するだけのいわば管理職のような立場となっていた。
これによって医師の負担はほぼなくなったわけだが、中にはやりがいをなくすものも出てきた。
この女学生もその一人だった。
「さすがに大学の研修では実際に患者さんと接して、AIじゃなくて人がする治療や手術を見てきたけど、実際に就職したらそれも過去の遺物だものね。まぁ、楽っちゃ楽だろうけど・・・」
そんなことを思いながらため息をついたところで、すでに講演が始まっていることに気がついた。
彼女は慌てて気持ちを切り替えると、講演に聞き入った。
『・・・ヒーラ細胞の不死化はご存知の通りヘイフリック限界の回避にあります。つまりテロメラーゼ活性を高めてテロメアを伸長させることによって細胞の老化を抑えているわけです。しかし、これは正常細胞と比べると著しいエラーを起こしているわけなので・・・』
壇上の演者は、教室正面の大型モニターに映るスライドを時折ポインターで指しながら話をしていた。
「ヒーラ細胞って、確かもう100年以上も前の話だったような。しばらく歴史の話か・・・」
女学生は演者の淡々とした話し方とその新鮮味のない内容に眠気を感じた。
「外科の研修レポート、提出日が明日だったよね。バイオマシンの話ってことで何か進路の参考にでもなるかなって来てみたけど、あまり面白くなかったら途中で退出しようかな」
そう思いながら、彼女は窓の外を見た。教室は暖房が効いているのでさほど寒さは感じなかったが、どんよりとした空からは雪が舞っており、気温の低下を想像させた。
『2070年にテロメラーゼ活性を高いレベルで維持する方法が見つかり、正常細胞でも細胞分裂を無限に行わせる事が可能になりました。これは何を意味するかと言うと、分化した細胞を同じ基準で何度も培養できると言うことです。分化した細胞というところが重要です。これにより再生医療は爆発的に進歩すると思われました。しかし、そうはいきませんでした』
「確かに、不老不死への第一歩なんてマスコミが騒いでたのを覚えてるなぁ」
そう考えながら。女学生はあくびを噛み殺した。
『・・・培養組織を人に移植すると必ず癌化してしまう問題が解決されないまま今に至ります。まぁ、いずれは解決されると思いますが、実用段階には程遠い状態です』
「もっと後ろの座席なら、寝れたのに・・・」
女学生はこのまま机に突っ伏して寝てしまいたい衝動に駆られた。
『そこで目をつけたのが軍事利用だったと言うわけです。それに先立って、カルシウム含有軽量超合金と海綿状生体組織の癒合によって強固でしなやかな人工骨格、つまりバイオフレームが実用段階に達しており・・・』
いつの間にか女学生は夢を見ていた。
夢の中の彼女は小学校の低学年だった。
陽が沈む夕暮れ。ひとりの部屋。ひとりの夕食。
彼女の両親は産科の開業医だった。病院は母で5代目となり、父との結婚を機に先代から病院を任されたのだった。
かなり前から産科は医師への負担が多く、当時はまだ一般開業医への高度AI支援システムの普及には程遠かった。それがわかっているからか医学生たちも産科医へと進むものはほとんどいなかった。そのような理由から慢性的な産科医不足のため、両親の病院は絶えず患者に溢れており、急な分娩や帝王切開の緊急手術などのため家にいることは滅多になかった。
小学校から帰っても、家にはいつも誰もいなかった。
夕飯はどこかで買ったお弁当だった。
それでも彼女は真面目に学校の宿題をこなし、それなりに勉強をしていたので成績は良かった。
たまに突然、両親のどちらかが帰ってくる事があり彼女はひとりじゃない夜を期待したが、すぐに電話で呼び出しがかかり、ものの数分で家を出て行った。
そんな両親を見ていた彼女は、医者にだけはなりたくないな、とずっと思っていたのだが、中学そして高校と進んでも、将来の道がはっきりしないうちに両親に言われるまま医学部に入学していたのだった。
それでも、産科にだけは進みたくなかったので、両親には内緒で外科の教室に所属していた。
「ああ、今となっては外科も産科も対して違いはなかったな・・・」
女学生は夢の中でそんなことを考えていた。
「先生は外科医だったとお聞きしたのですが」
耳に入ってきた言葉に、わたしはまだ外科医じゃないけど、と返そうとしたところで目が覚めた。
「どうして外科医を辞めてバイオマシンに進まれたのですか?」
公演はすでに終わっており、階段教室の後ろの方の学生が演者への質問をしていた。
女学生はしっかりと眠ってしまっていたことに愕然とした。
「先ほどもお話ししたように、分化細胞からのほぼ完璧なヒトの臓器が培養可能となってもそれを外科医として活かせないことに失望感を感じました。さらに技術がそこで止まってしまう事をもったいなく思いました。ならばバイオマシンでその技術を発展させれば、癌化の問題がクリアできた時にヒトの医療にフィードバックできるのではないかと。それでわたしはバイオマシンの外科医となったわけです」
演者はそこでにこりと笑った。
質問した学生は、ありがとうございますと頭を下げると、着席した。
「バイオマシンの外科医・・・」
女学生はその言葉の意味がピンと来なかった。なぜなら最も肝心な箇所を寝ていたことによって聞きそびれていたから。
「それでは、質問も出尽くしたようですので、これで今回の講演を終わらせていただきます。ありがとうございました」
演者が壇上で頭を下げると、学生たちが一斉に拍手を送った。
「バイオマシンの外科医・・・」
もう一度その言葉を繰り返した女学生は、立ち上がると教室を出てゆく演者の後を慌てて追った。




