第8話 強権への第一歩
翌朝――。
重たい雲が空を覆い、夜の雨が残した湿気が街に漂っていた。まだ早朝だというのに、非常事態宣言を受けた首都では警備隊が目立ち、市場も普段の活気を失っている。人々は互いに視線を交わし合いながら、足早に家へと帰っていく。
そんななか、新政府の要職に就く者たちは、慌ただしく動き回っていた。
執務室に足を踏み入れたパルメリアは、まず新たな「大統領令」の策定に取り掛かった。非常事態宣言に伴い、治安維持の強化を名目に、いくつかの行政権限を大幅に強化する条文案をまとめ始める。そこには「一部地域への軍の優先配置権」や「疑わしき集団の強制捜査権」、さらには「必要に応じて物資を一時接収する権限」など、強権的としか言いようがない項目が並んでいた。
ペンを走らせながら、彼女は微かに唇を引き結ぶ。
「……こんな措置を取ることになるなんて、考えもしなかったわ」
革命を成し遂げたばかりの頃は、民衆と手を携え理想を分かち合っていたはずだった。けれど、地方で起こる騒乱が収束する気配を見せず、何らかの手を打たなければ国は混乱にのみ込まれてしまう――それが、今の彼女の確信となっていた。
その時、控えめなノック音が響き、数名の官吏が順番に部屋に入ってくる。皆、遠慮がちに視線を落としながら口を開く。
「先ほど拝見した新たな大統領令の草案ですが……議会への説明はどう進めましょう。非常事態宣言だけでも議会との間に溝が深まっているなか、さらに権限拡張となれば……」
言葉を濁す彼らの様子は、まるで大きな爆弾を抱えているような雰囲気を漂わせている。王政打倒後の混乱を憂い、新政権を支えようとする一方で、歯止めの効かない権力集中に対する危機感も抱えているのだろう。
パルメリアは書類から目を離さず、静かに答える。
「議会が反発するのはわかっています。でも、何もしなければ国全体の混乱が加速する一方よ。……暴動がすでに首都近くまで迫ってきている状況で、ここで食い止めなければ、いつ本格的な内乱になってもおかしくないわ」
山積みの「事件報告」や「討伐要請」の書類が、その切迫した状況を物語っていた。言われた通り、官吏たちも否定できないのか、苦い表情を浮かべつつもうなずくしかない。
王政崩壊後、行政は今なお不安定で、激しい暴動に対処しきれていない。そんな実情から、「強いリーダーシップ」が求められているのも事実だった。
その日の昼下がり、外務担当のレイナーが息を切らせて執務室にやってくる。首都内を回り、警備体制の様子を確かめてきたという彼は、疲労の色が隠しきれない様子だ。
「……ちょうどよかった。警備隊の詰所を巡ってきたけど、首都全体が早くも重苦しい雰囲気だ。あちこちで、これからさらに権力を集中させるんじゃないかって噂が流れてる。……他国の使節たちも、同じことを思い始めてるよ。二度目の専制って」
パルメリアは書類を置き、レイナーに座るよう促した。彼の疲れが肌で感じられるほど近い距離に、わずかながら居たたまれない思いが胸をかすめる。
「他国からの視線が厳しくなるのは、わかっているわ。……でも、こうしなければ首都周辺の武装集団がますます動きやすくなる。私はみんなを危険にさらしたくないの」
レイナーはテーブルに資料を広げながら、静かに息を吐く。
「……君が国を守ろうとしているのはわかる。でも、民衆も周辺諸国も専制だと捉えたら、国際支援や貿易は遠のいて、共和国の孤立はさらに深まる。そうなったら改革は滞り、さらに不満が募るかもしれない」
会話の中に、行き場のない焦燥が漂っている。二人とも、どちらが正しいかという次元ではなく、どちらの手段も苦渋の選択だと理解しているのだ。
パルメリアは机の上の書類をそっと手に取り、視線を落とす。
「私は大統領。誰かが前に出なければ、この国は崩壊する……レイナー、私にはもう後退する余裕がない。ユリウスやあなたからどんなに責められても、進まなければならないの」
レイナーはわずかに唇を噛んで、言葉を継ぐ。
「わかった。僕は外務担当として、周辺諸国の不信感を和らげる努力を続ける。しかし、ユリウスは……彼はまだ革命の理念を信じて、民衆に寄り添うやり方を貫きたがっている。いつまでも妥協はできないと思う」
「大丈夫、きっと彼もわかってくれる。私たちは仲間だったんだから」
パルメリアはそう言い切ったが、その瞳には不安が宿っている。
このまま強権を行使し続ければ、ユリウスのみならず、多くの仲間が離反しかねない。それでも、国を守らなければという焦燥感が、彼女を突き動かしていた。
そして数日後――。
パルメリアは非常事態宣言の名の下に、「特別裁定委員会」なる組織を立ち上げると発表した。反乱やテロ行為、旧貴族の陰謀などを迅速に裁くための臨時機関だという触れ込みだったが、法的手続きの簡略化が図られ、議会の承認を経ずとも逮捕・尋問・裁定が進められる仕組みになっていた。
これは実質的に「一種の非常法廷」だ、と一部から批判が上がる。すでにユリウスの周辺からは「粛清の始まりでは」とささやかれ、レイナーもまた国際的な評判をさらに悪化させると言わんばかりの暗い顔をしている。
しかし、革命後も絶え間ない暴動や旧貴族の暗躍を迅速に抑えなければ――という理屈が人々をある程度納得させているのも事実だ。表面上の「秩序回復」が進めば、パルメリアはさらに強大な権限を手にし、その結果、彼女の地位は揺るぎにくくなる。
それが「強権への第一歩」と呼ばれようとも、彼女は立ち止まることはできなかった。
(仕方がないわ。こんな大それた権限、前世の常識では考えられなかった。でも……今、この国を守れるのは私しかいない)
大統領令に署名を終えた後、パルメリアは机に肘をついて、一瞬だけ目を閉じる。
仲間たちの不安、民衆の不信、周辺諸国の警戒――どこを見ても霧が立ちこめている。それでも、躊躇すれば国全体が崩壊しかねない現実を前に、彼女はペンを取らざるを得なかった。
「……私が望んだのは、王政が崩れた後の自由と平等。それなのに、どうしてこんな形で権力を振るうことになるのかしら」
微かなつぶやきは誰にも届かず、執務室の静寂にのみ込まれていく。
こうして「傲慢な令嬢」と揶揄されたかつての公爵令嬢は、いつの間にか「大統領」という椅子に座り、権力の階段を駆け上がり始める。それは、革命という大義の名の下で彼女が踏み出してしまった強権の道――まだ、ほんの第一歩にすぎないが、もはや後戻りは難しいのかもしれない。