第4話 苦渋の決断
数日後の早朝。
まだ空が白み始めたばかりだというのに、パルメリアは旧王宮の一角にある執務室で、山積みの書類に追われていた。
机の上に広げられた地図や報告書は、旧貴族の残党や農民の引き起こす小競り合い、さらには武装蜂起の情報など、物騒なものばかり。革命の勝利から間もないはずなのに、国土のあちこちで火の手が上がりつつある。
(どうして……こんなにも早く暴力沙汰が頻発するの? 王政を倒し、もっと平和な世を築きたかったのに)
深く息をついてペンを置く。首都近郊の部隊を再編し、各地へ派遣するための命令書はほぼ整ったが、彼女の瞳には焦りがにじんでいた。
「これ以上放っておけば、反乱が一気に広がってしまうわ。……仕方ない、やはり武力で制圧するしかないの?」
つぶやきというより、自分への問いかけに近い独白が静かな執務室に落ちる。すると、ノックの音とともに扉が開いた。彼女の護衛騎士として名を馳せ、今や「国防軍司令官」を務めるガブリエル・ローウェルが姿を見せる。
ガブリエルは寡黙な男だが、確かな技量と揺るぎない姿勢で兵士たちの厚い信頼を集めている。彼は一礼し、落ち着いた声で報告した。
「パルメリア様、先日お話のあった治安回復部隊の編成が完了しました。総勢八十名ほどですが、旧貴族の拠点や農民たちが占拠している倉庫を制圧するには十分かと思われます」
「八十名……本当は少し心許ないけれど、今の新政府ではそれが精一杯なのね。ありがとう、早めに準備してくれたのね」
パルメリアは書類をとじながら、ほっと安堵する気持ちと心許なさが入り混じる。ガブリエルは静かな口調を崩さず続ける。
「ただ、彼らは一か所に固まっているわけではありません。旧貴族派も過激化した農民も、それぞれ複数の勢力に分かれていて、正面から当たると無関係の住民を巻き込む危険があります」
パルメリアは大きくうなずいた。王政を倒すために団結していた時期とは異なり、「旧貴族派」「過激化した農民」「その他のならず者」が各地で混在し、事態をいっそう複雑にしている。
「わかっています。本当なら私が現地へ行って説得や調停をしたいところだけれど、今はそうも言っていられないわ。混乱がさらに拡大すれば、取り返しがつかなくなる。武力行使は最後の手段と思っていたけれど……やむを得ない」
自分に言い聞かせるように小さくつぶやく。革命直後は、民衆との対話を重ね、できる限り流血のない安定を目指したいと願っていた。けれども、今まさに頻発する暴動を放置すれば、大きな犠牲が出るのは目に見えている。
「すぐに出撃して。強硬策を取れば必ず批判されると思う。でも、今の状態を放置してもっと被害が広がる方が、はるかに悲惨よ」
ガブリエルはひとまず敬礼し、けれども少しだけ言い淀むように口を開く。
「承知しました。ただ……『大統領が力ずくで黙らせようとしている』と言う者も出てくるでしょう」
「覚悟はできているわ。私の理想を守るため、犠牲を最小限に抑えるための行動よ。――頼むわ、ガブリエル」
パルメリアの言葉は毅然としていたが、その奥にはやるせない思いがちらついていた。
ガブリエルが退室すると、彼女は机の端に置かれた冷めきったコーヒーを一口含む。苦いだけで、今の状況を象徴しているように感じる。
「こんな形で強権を振るうなんて……王政を倒した時には想像もしなかった。でも、もう目を背けられない」
やりきれない思いを振り払うように書類を重ねていると、ほどなくして「治安回復部隊が地方の拠点を強襲・制圧した」という報告が舞い込んだ。旧貴族派が立て籠もる館への急襲や、暴徒化した農民の逮捕も行われたらしい。死者は少なかったが、負傷者は相当数にのぼるという。
(最悪の事態は避けられた……そう信じたい。でも、本当にこれでよかったの?)
胸を抉るような疑念を振り払おうとしていた矢先、再びノックの音がする。扉から姿を見せたのはレイナーだった。
どうやら少し前まで外出していたようで、戻るなり今回の鎮圧の話を耳にしたらしい。困惑した様子でパルメリアに声をかける。
「大丈夫か……? 無理してないだろうね」
パルメリアは小さく息を吐き、表情を変えずに答える。
「放っておけば、もっと被害が拡大していたはず。少なくとも、これ以上の犠牲を増やすわけにはいかない。……もちろん、死傷者が出たのは私にとっても辛い。でも、最善を尽くした結果よ」
彼女の手元を見ると、書類をめくる指先がわずかに震えているのがわかる。しかしパルメリアは視線を合わせようともせず、続けた。
「ただ……もう『大統領が強権を振るい始めた』なんて噂が広まってるみたい。農民の中には『このまま力で押さえつける気だ』と警戒する者もいるし、旧貴族派も影で『やはり恐ろしい女だ』などとささやいているって」
レイナーは苦々しげに唇を結ぶ。つい先日まで彼女は民を救う希望の象徴だったのに、いまや武力を背景とした鎮圧が期待されるという、危うい状態だ。
「君が悩んで苦しんでいることは、わかってる。でも……」
「でも、やるしかないのよ。もし何もしなければ、『大統領は何もしてくれない』と責められる。強硬策を取ったら取ったで非難される。ならば、大きな流血になる前に手を打つしかないじゃない……」
言葉の端々に、押し殺した悲しみがにじむ。
レイナーは何か言いたそうだったが、そっとパルメリアの肩に手を添えるだけで引き下がった。
「……わかった。僕は必要な物資や支援を手配するよう、すぐに動く。君も無理はしないでくれよ」
「ありがとう。でも、次の報告がすぐに入るはず。落ち着いている暇なんかないわ」
そう答えながら、彼女は書類に視線を戻し、ペンを走らせる。レイナーが去っていく気配を感じながらも、手を止めることはできない。
(結局、こうして「力」を使って抑え込むしかないの? 私が望んだのは、もっと優しい世界だったはずなのに)
自分を嘲るように、小さく息を吐く。
間もなく首都の一部では「暴力的支配の始まりだ」とささやく者が現れ始めたとの風聞が伝わってきた。しかし、パルメリアは立ち止まれない。各地から次々と報告が上がり、対応を怠れば、より多くの命が失われるかもしれないからだ。
(これは国を守るための苦渋の決断。……だけど、どうして胸がこんなにも痛むの?)
最後の書類に判を押し、深く息をついた。この「最初の強権的鎮圧」が、後にさまざまな議論を呼ぶ事件になるとは、まだ知る由もない。
夜明け前から動き続け、疲労を感じてもなおペンを握り続ける。新政府の大統領であること――それがパルメリア・コレットが背負う運命なのだと、彼女は必死に自分を納得させようとしていた。