第32話 忠誠と苦悩
周辺諸国への侵攻が本格化し、国内の苦境が深まるなか、国防軍司令官ガブリエルは自らの部隊を率いて先陣を切る立場に立たされていた。短期的な戦果が上がるたび、さらなる出撃命令が下り、兵士たちは休む間もなく前線へ送られる。しかし、国中から聞こえてくるのは戦費拡大と重税による飢餓や小規模暴動の報せばかり。もはや王政時代を超えるほど民衆の生活は圧迫され、ガブリエルの胸にも止めどない葛藤が積もり始めていた。
ある夜、ガブリエルは司令部の執務室で、疲弊しきった表情の部下から報告を受けていた。徴兵されたばかりの兵たちの不満や前線の凄惨さ、さらには国内で飢えに苦しむ家族の姿までが赤裸々に綴られたその書類に目を通すと、やがて机に手をつき、低い声で問いかける。
「次の侵攻に必要な人員はどれほどだ? これ以上兵を徴発すれば、国そのものが崩壊しかねないだろうに……」
それでも書類にサインをしなければならない。もし背けば反逆とみなされるだけではなく、保安局の監視が軍内部にも厳しく及び、わずかな躊躇が「反乱」扱いされる恐れがあるからだ。
革命の頃、ガブリエルはパルメリアを守る騎士として、民のために剣を振るうことを誇りとしていた。だが今や、与えられる命令は他国への侵略と、それに伴う粛清――どう見ても「騎士道」とはかけ離れている。
(これほどまでに私はパルメリア様に従属しているのか……。もとは自らの意志で戦っていたはずが、今は剣を振り下ろすしか道がない)
そんな思いが募るたび、唇をきつく噛む。兵士たちも事情は同じで、本来なら「理想を守る英雄」と仰ぎたい司令官が、今は大統領の意向に従うだけの存在になりつつある現実に、不安と不信を募らせていた。
「司令官、これが次の侵攻作戦に必要となる人員と物資のリストです。兵たちから『もう限界だ』という声が多く上がっていますが、どういたしましょうか」
部下の声には焦りが混じっている。ガブリエルは表情を変えないまま、書類を一瞥して答える。
「……この通りに進めてくれ。反対意見があろうとも、従わねばならない。責任は私が取る」
苦渋の表情のままそう告げると、部下は目を伏せて敬礼し、部屋を後にした。その足音が遠ざかるにつれ、ガブリエルの心を押しつぶす孤独の重さが増していく。
一方、かつて改革を夢見た兵たちは「司令官は結局、大統領の方針に従うだけか」「家族を捨てろというのか」と、閉塞的な不満を小声で漏らしている。上層部からは「騎士団に不審な動きがあれば即報告せよ」と保安局が通達しており、部下たちも互いを疑わざるを得ない状況だ。
「ガブリエル様も、もうあの人の手足になっただけなのか……。民を守るなんて考えていないのか」
そんなささやきに触れるたび、ガブリエルは強い痛みを感じる。けれど、彼が取れる選択肢は限りなく少ない。軍内部にも吹き荒れる粛清の嵐に背けば、自分も部下も「裏切り者」として粛清されるのは明らかだ。
(ここではただ、剣を振るうしかない……。だが、いつまでこんなことを続ける? 兵も民も疲弊するばかりなのに)
革命時の高潔な目標は消え失せ、独裁を支える歯車の一つとなっている現実。ガブリエルの苦悩は深まる一方で、逃げ場を失った思考は「とにかく従うしかない」という破滅的な従属へと導かれていく。
その頃、パルメリアは軍からの進軍報告を眺め、「司令官の働きが目覚ましい」と書類を満足げに重ねていた。彼女が望むのは、さらに外征を拡大し資源を手に入れること。もしそれに応えられなければ、自分たちが粛清されかねないという無言の圧力が、ガブリエルの胸を締めつける。
こうして、侵略戦争の先頭を任されながらガブリエルは表面上の「忠誠」を示すしかない。兵たちからの不信や、保安局の監視、そして民衆の苦悩――あらゆる要素が重なり合い、かつての「主君を守る」騎士道は踏みにじられていく。
(もし今逆らえば、多くの血が流れる内戦が起こるだろう。だが従えば、他国との血まみれの戦争と国内の疲弊が広がるだけ……何を選んでも地獄、か……)
主従の絆を断ち切ることも、反逆を試みることもできないまま、ガブリエルは「忠誠」に縛られている。圧政の象徴として剣を振るうしかない姿は、ある意味パルメリアと同じ孤独に苛まれているのかもしれない。騎士道が「従属」に変わり果てた日常のなか、彼の後悔はただ深く澱んでいくばかりだった。




