第26話 誓いの代償
夕刻の空が薄暗く染まり始める頃。ガブリエルは国防軍の執務室で、新たに摘発されたという「反乱分子」についての報告を、若い副官から受けていた。
その者たちが本当に反逆を企てていたのか、ただの密告に巻き込まれたのか――どちらか判別できないまま、並ぶ名前を追うごとにやり切れない息が漏れる。
(これでは民衆が無差別に逮捕されているも同然……いったいどこまで血を流せばいいのか)
もとは王国を守る名門の騎士団だったはずの国防軍は、粛清や鎮圧の先頭に立つほどまでに変質していた。
かつての護衛騎士としてパルメリアを守りたい気持ちは、ガブリエルの中にまだ消えずにある。だが、彼女の命に従うたび、民を逮捕し、必要とあらば剣を振り下ろす現実は「騎士道」の言葉から遠ざかるばかりだった。
「司令官、こちらの資料をご確認ください。大統領府から、新たな地方鎮圧の計画が指示されています」
副官の言葉に、ガブリエルは苦渋を押し隠して書類を受け取り、目を落とす。今さら抗う手段もないまま、それを引き受けるしかない自分に、思わず自嘲が込み上げそうになる。
そこへ一本の通達が届く。大統領府から、「直ちに執務室へ来るように」という指示だ。ガブリエルは眉間に皺を寄せ、胸に嫌な予感を抱えたまま副官を下がらせ、急ぎ大統領府へ向かう。
(最近、国防軍の士気低下を耳にして不満を募らせているのかもしれない)
扉を開けると、執務室の奥でパルメリアが冷ややかな視線を投げかけてきた。
「来たのね。……さっそくだけど、国防軍の中で不穏な動きがあると報告が上がっているの。何か把握している?」
彼女の声は一見穏やかだが、その底には突き刺すような鋭さが混じっている。まるで部下の動向を全て把握した上で問い詰めているかのようだ。ガブリエルは背筋を伸ばし、言葉を選びながら答える。
「不穏かどうかは判断しかねます。ただ、民への過激な処置に疑問を抱く者は増えています」
言いながら、ガブリエル自身の思いもにじませる。それでもパルメリアは軽く眉をひそめ、机上の書類に視線を落とす。
「もともと民を守るため……今のこの国で、そんな甘い理想を語る余裕があると思う? 国外からの圧力は強まる一方、国内には反乱の火種がいくらでもある。軍が迷えば、国は一瞬で崩れるわ」
冷たい口調に混じるのは、追い詰められている焦燥。ガブリエルは胸を締めつけられるような思いで返す。
「理解はしています。しかし、それでも……民を無差別に粛清する形で国をまとめるのは正しいとは思えません。隊員の中にも苦悩している者は少なくありません」
パルメリアの瞳が一瞬揺れる。しかし、すぐに切り捨てるような言葉が返ってきた。
「あなたが言う正しい道って何? 優しく説得したところで、反乱は収まらない。そんな甘さがどれだけ血を呼ぶか……あなたなら理解してくれていると思っていたわ」
ガブリエルは反論を飲み込み、唇を噛む。彼女が強硬策に踏み切るまでの苦難と裏切り――それを思えば、容易に否定できないのが余計につらかった。
「昔は、王政を倒して民を自由にするはずでした。しかし、今では民を捕えて怯えさせる手段を使っている。隊員たちは、そのために剣を取ったわけではありません……!」
切羽詰まった響きでそう言うと、パルメリアは微かな嘲笑を浮かべる。
「なるほど。国防軍の中にも反乱分子がいると保安局から報告を受けているわ。……あなたまで疑うべきなのかしら? 司令官として、この路線を受け入れないつもり?」
その言葉には、「従わないなら出て行け」という脅威が潜んでいる。ガブリエルは拳を握りしめるが、結局はうつむくしかなかった。かつて大切に守り抜いた主君が、今はこんなにも険しい目で自分を探るように見下ろしている。
「……この身は、今でもパルメリア様をお守りしたいと思い続けています。そう誓ったからこそ、見捨てるわけにはいかないのです」
パルメリアは書類を閉じ、わずかに息を吐く。
「ならば黙って従って。次の地方鎮圧でも、徹底的に摘発を進めてほしい。どうしても無理なら、他に行く道を探せばいい。……あなたの部下も同じ道を辿るでしょうけど」
それは脅迫とも呼べる宣告だった。ガブリエルが唇を噛みしめても、パルメリアは気にした様子もない。かつての穏やかさは消え、瞳には「国を守るためなら何をも犠牲にする」という凄絶な決意が浮かんでいる。
ガブリエルは踵を返し、うなだれながら執務室を後にした。その背中に、パルメリアは目を向けようとはしない。扉が閉まり、静寂が戻ると、彼女はまるで呆然としたように天井を仰ぐ。
(……ガブリエルとの絆すら、こんな形で断ち切ろうとしている。それでも迷ってはいられない。国を滅ぼすわけにはいかないんだから)
その思いは悲壮なほど強く、どこか狂気を孕んでいるようでもあった。
こうして、ガブリエルはパルメリアから「最終警告」を突きつけられ、命令に従わなければ部下もろとも粛清されることを覚悟するしかなくなった。共有していた理想や信頼はすでに崩れ去り、疑念があれば誰であろうと「反逆者」として粛清される社会で、彼も例外ではない。
騎士としての誇りを守るか、それとも血の粛清を継続する独裁に加担するか――どちらに進んでも光は見えず、ただ絶望が深まるばかり。こうして二人の間には決定的な亀裂が生まれ、ガブリエルは軍を抜ければ自らや部下の命が危険にさらされることを理解した。
王政を倒すために立ち上がった理想や誇りは、強権支配の進行とともに消え去り、粛清の嵐がそれを無慈悲に吹き飛ばしていく。パルメリアの「警告」を胸に、ガブリエルは苦悩の中で軍を統率し続けるほかなくなった。騎士道の理想も、自身の誇りも、血塗られた現実の前では無力に消えていく――それが、護衛騎士だった彼が現在行き着いた姿だった。




