第22話 壊れた正義
夜の闇が深まるなか、執務室にはただランプの灯りだけが揺れていた。
パルメリアは机に積まれた報告書の束に目を通し続ける。もう何時間、こうして書類を捌いているのだろうか。徹夜は珍しくないが、今夜の静寂はいつも以上に重くのしかかる。
(気づけば、どれほどの逮捕命令に署名してきたのか……最初は「国を救うため」と信じていたはずなのに、今では粛清が日常になっている)
机上に並ぶ「反乱分子摘発の進捗」「捜査報告」の文字列が、微かににじんで見えた。まるで血の臭いすら染みついているかのように――。
かつてなら、一つひとつの報告書に目を通し、その内容に胸を痛めたかもしれない。だが今、彼女の心には奇妙な鎮静が広がっている。それは決して穏やかさではなく、心が疲弊しきり、悲しみや罪悪感を押し殺すための防衛本能にすぎなかった。
「地方でも国家保安局の活動が拡大し、潜在的な脅威が洗い出されつつある……」
つぶやいた自分の声が、他人のもののように遠く感じる。
手にした報告書には、「嫌疑不十分でも捜査継続」「家族関係を調査中」など、到底許されなかったはずの行為が、全て「国を守る」という名目のもとに正当化されていた。
(あの日、王政を倒せば、本当に民を救えると思っていた。私の知識があれば、誰もが平等に暮らせる社会を築けるはずだった。でも……これは本当に「正義」なの?)
思考の奥底から湧き上がる疑問を、彼女は無理やり押し殺す。今さら考えたところで、意味はない。後戻りなどできないことは、とうに知っている。
「ここで止めれば、今までの犠牲が全て無駄になる。……もし国が再び戦乱にのまれれば、王政時代よりも酷い結末を迎えるかもしれない。ならば、私が負うしかない」
押し殺した独白が、静まり返った執務室に溶けていく。
誰に言うわけでもなく、自らを納得させるように繰り返すたびに、胸の奥がひどく冷たくなっていくのを感じる。
外が白み始めるころになって、ようやくパルメリアは手を止めた。
山積みの捜査書類には、新たな捕縛対象の名前がずらりと並んでいる。その名の一つひとつに、彼女自身の判が押されていた。それを眺めながら、背筋がじわりと冷たくなる。
(これではもう「正義」とは呼べない。ほとんど狂信に近いとわかっているのに……なぜ手を止められないの?)
息を吸い込み、微かに笑う。
それは自嘲だったのか、それとももう感情すら失われつつあるのか、自分でもわからない。
「……きっと、もう誰にも理解されない。けれど、私は迷うわけにはいかない。革命で多くの人を巻き込んだのだから、最後まで責任を果たすしかない」
悲壮な声が、虚空へと溶けていく。
もしここで立ち止まれば、国が再び争乱に沈む――そう思い込まなければ、彼女はとっくに折れてしまっていただろう。
かつての仲間は去り、信じられる者はもはや数えるほどしかいない。
その寂しさを埋めるように、彼女はさらなる強硬策へとのめり込んでいく。その姿は、もはや「信念」というよりも、「自己洗脳」に近いものだった。
(王政を倒しても、私は何も救えていない……。違う、そんなことはない。国を守る道はこれしかない。そうでなければ……全てが、無意味になる)
扉が軽くノックされ、官吏が顔を覗かせる。
「大統領閣下、昨夜に摘発された者の追加リストでございます。確認を……」
パルメリアはわずかに苦い表情を浮かべ、官吏から書類を受け取る。
「ええ、ありがとう。すぐに目を通すわ」
官吏が退室すると、執務室は再び沈黙に包まれた。
ランプの炎が揺れる音が、やけに鮮明に聞こえる。
書類には、人名が並び、「反体制の疑い濃厚」という言葉がいくつも記されている。守るべき民を追い詰めている現実――それを突きつけられるたび、心は軋む。それでも、彼女の手は止まらなかった。
「……仕方ない。迷えば、もっと多くの血が流れる。王政時代の腐敗は、もう二度と繰り返さない」
その言葉を、もう何度繰り返しただろう。ペンを握り、静かに署名を重ねる。その瞬間、また誰かの運命が変わる。誰かが、国家の敵として処分される。
それがわかっていても、彼女は止まらない。もはや、それが「正しい」のかどうかさえ、考えることを放棄していた。
この国では、人々は息を潜め、声を上げることを諦めつつある。「革命の理想」は、今や恐怖と疑念に塗りつぶされ、形を失っていた。それでもパルメリアは筆を走らせ、無数の命を紙の上で裁き続ける――。
朝日が昇り、街が薄ぼんやりと明るさを取り戻す。しかし、その光が彼女の心を照らすことはなかった。
ランプの消えかけた炎を見つめながら、パルメリアは再び手元の書類に向き直る。
(これで、いつか本当に救いが訪れるの? ……わからない。でも、私がここで立ち止まれば、全てが崩れる)
そう確信するように、ペンを握る手に力を込める。
彼女の眼には、揺らぎと、高潔だったはずの意志が変質した狂信が、奇妙に共存していた。




