9 息子が望んでいた未来とは
慎一は、宣言した通りトップで音大に入学した。
同時に、『世界の教授』が『音大の教授』になった瞬間でもあった。
母親と同じ大学なんて嫌だろうかと訝しんでいたのだが、そのような感じもなかった。
「音大の攻略法を教えてください」
なんて言ってきた。
大学・大学院とも首席だった私が何の科目でどのような勉強をしたか、成功したことも失敗したことも話した。慎一は、全て真似をするような子ではないし、そうする必要もない。私は信じる楽しみが大きくなっていった。
秋。
珍しく、夫が家にいる休日。
世間の休日は、学生も休日。
私は音大受験生、受験生予備軍を自宅でレッスンする。
「じゃ、そろそろレッスンだから。3時間おきに休憩するから、御用があるならその時にね」
「了解。ランチつくっておくよ。買い物のメモはこれだけ?」
「えぇ、いつもありがとう」
受験生はもちろん、専門を目指す生徒のレッスンは楽しい。どんなに出来ていないことがあっても、目標に向かって挫けさせずに、且つ一人で出来るように持っていく。ポイントだけささっと教えて、「あとは次回までに自分でやってきてね」ということはしない。レッスン中に必ずその場で出来るようにする。昔の常識はともかく、生徒が一人で出来ないところからの現状に向き合い、総合的に足りないところをいろいろな方面から補強し、やり遂げる力を身につけさせる。
それには時間がかかる。趣味の生徒を見たくない訳ではないが、趣味の生徒は基礎練習をしたがらないし、まとまった練習時間をかけない。レッスンだけでは難しい。時間をかけてでも学びたいと思うのは専門を目指す生徒自身であり、こちらが基礎力を強化した上で深いレッスンをしたいと思うのも、専門を目指す生徒だ。
私の師匠もかなり面倒を見てくれた。私もそういう指導者になりたい。生徒の数より、一人一人を大切に。それ故、各学年二人と限定している。採算度外視で、一回のレッスンに3時間かけている。慎一にも子供の頃からいかに楽しく、いかに充実した内容にするかを考えてレッスンした。毎日が楽しかった。
短時間集中するなんて、あたりまえのこと。特にピアノは膨大なレパートリー、相当の練習が必要で、仕事をしていくならば短時間で完成させる力が必要になる。音楽は楽しくとか、趣味が一番とか、ピアニストになるにはそんな綺麗事では済まない。結果は必ずついてくるとは言わないが、それでも練習しなければ身につけた技術は退化し、あっという間に仕事はなくなるだろう。
音大に入ったら、練習時間が増えるわけではない。必ず確保できるわけでもない。誰だって時間は有限だし、他の科目の予習復習、演奏会、実技試験もある。とにかく、少しでも速く、少しでもレベルアップしてから音大に入学させ、各々の最大限の可能性を引き出し、応援したい。「譜読みが遅い」とか「初見がきかない」とか「暗譜ができない」などという理由でその先の夢をあきらめることのないように。
私はそんなふうに、常に使命に燃えていた。
今年も、もうすぐ12月。
今年度受験の生徒たちの仕上がりは上々だ。出来ているのはあたりまえ。これだけ努力してきたのだ。本番で最高の演奏をさせるよう、試演会で緊張と自己に向き合い、過去の演奏会から自身の調整の仕方を振り返ってノートに書かせたり、カウンセリングしたりもする。まぁ、入試本番は緊張していてそれどころではなくなるかもしれないけれど、緊張感があるというのは悪くない。心配な生徒はいないし、慢心するような生徒もいない。
心配な生徒はいないが、心配事はある。
今年度で大学を卒業する筈の慎一が何も言ってこない。これまで、特待生を継続してきた。もちろん首席として卒業を狙えるだろう。
なのに、大学院に願書を出していなかった。当然の如く受験すると思っていた。様々な先生方や、慎一のファンと思われる学生に進路を聞かれた。只の興味本位かもしれない。「私は関知していませんから」と答えれば、「では卒業後はどちらへ?」と聞かれ、しらばっくれるでもなく「本人に任せていますので」と答えるしかなかった。大学で何も聞いてこないのは、私の門下生と事務職員くらいだった。
去年は国内の有名なコンクールに出て、一位とグランプリを獲った。そして今年はかおりちゃんが同じコンクールで同じだったという。慎一に対しても驚いたし、かおりちゃんに至っては驚いたなんてものじゃなかった。いや、それだけのものがあると思っていたけれど…………。慎一は何を考えているのだろうか。
大学院の入学試験があった頃、夫に聞いてみたら、
「るり子の息子だろ?何も心配することはない。俺の息子だし、ピアノ以外にヤバい科目があって卒業が怪しいのかもしれないし。卒業して何処かに属さなくたって、慎一は心配ない。どうにでもなる。むしろ俺達が想定しないような人生を歩んで欲しいくらいだ。何にしても楽しみじゃないか」
だそうだ。
どうしてそこまで達観できるのかわからない。男親だからかしら。まあね、私が思い描くような人生なんてつまらないかもしれないわね。私だって、あの時夫に出会わなかったら…………考えたくもない。
音楽の世界は広いようで狭い。これから留学準備をするならそれでもいいけれど。そうか、慎一だったら周到に用意している筈。卒業した春に、どこかの国の春季講習にでも行くのかしら。欧州ならば、正式に入学するのはその後だ。うん、きっとそんなところだろう。
夜。
受験生のレッスンが終わってしばらくしたころ、慎一が帰ってきた。普段着姿だけれど、背中がご機嫌だった。「ただいま」以外何も言わなかったけれど、口元が微かにゆるんでいたように見えたのは、気のせいかしら?そんなことにも気がついてしまうし、いちいち聞けないから、本当は気になる。気にならないわけがない。
私と入れ違いに防音室に入った慎一を見送り、リビングで寛いでいた夫の隣に座り、こっそりと呟く。
「慎一、何かいいことでもあったのかしらね」
「あぁ、うまくいってるんだろう」
夫は、事も無げにそう言った。何をそんなに嬉しそうにしているのかしら。
「うまくいってるって、何が?」
「そうか、るり子はレッスン中だったか。行く時はスーツだったし、珍しく髪とか気にしてた。俺の車を貸そうかって聞いたら、素直に借りてったぜ」
初耳だ。
「いつも慎一が使ってる車がどうかしたの?事故?お気に入りの車を慎一に貸すなんて。珍しいのね」
「……興味津々の割に鈍いんだな。俺は一目でプロポーズだとわかったけど」
鈍いだなんて、よくも気にしていることを……え。
「まさか。かおりちゃんに?」
私は思わず立ち上がった。
夫は唇の前に指をたてた。
「他に誰がいるんだよ……俺も今朝聞いたところだ。藤原さんには、もう先に了承もらってたらしい。静かに待ってれば教えてくれるさ」
藤原さんにも伝わってるなんて!
「私がこんなに静かにしてるのに!」
「ほら、騒ぐと慎一にバレるぞ」
夫の話は本当だった。
12月になり、慎一は卒業試験と結婚式の打ち合わせと新居の準備で急激に忙しくなった。
両家の顔あわせというのだろうか、写真館で記念撮影をして会食をした。久しぶりに外にいる悦子を見た。学生時代に戻ったようで、私は嬉しかった。悦子は滅多に外に出ないからか、生活感もない。かおりちゃんと並ぶと似ていて、まるで姉妹のよう。おとなしいかおりちゃんでさえ、悦子と比べたら表情豊かで、薔薇色の頬が健康的で生き生きとして見えた。
会食の場所は慎一が案内してくれた。都内にあるホテル内のフレンチレストランで、お洒落なお店だった。
私は、かおりちゃんが指輪をつけているのを発見した。
「かおりちゃん、素敵な指輪じゃない!これ、慎一が?」
「はい」
かおりちゃんはにこにこしている。
「慎一、あなたよくそんなに持ってたわね」
「お母さん、かおりの前でやめてください」
「あ、もしかしてコンクールの賞金?確かあれは部門1位の賞金100万と、全部門グランプリの賞金が100万だったかしら?いつの間にか200万も持ってたのね?」
「それ以前に、ここでBGMや演奏のバイトもしています」
そうだったのか。チラッと教えてくれた「バイト」はここだったのね。そういえば、向こうに良さそうなピアノがあるし、どおりでスタッフさんの対応が…………。私達が案内された席だって、このレストランで一番良い席だ。
「やるわね!今日も何か弾くつもりなの?」
「今日は弾きません」
「……ってことは、かおりちゃんも賞金があって、お金持ちね!藤原さん、かおりちゃん素晴らしいですわ!」
「なんだ、かおりはお金持ちなのか!すごいなー!」
藤原さんもご機嫌だ。
「かおりちゃんはこれから大学生ですものね。それで慎一が藤原になるのね?新居が教授と同じ、音大の教員住宅……と。あんなに便利な所でピアノが弾けて安く住めるなんて、よかったわね。慎一も大学にも近いし、かおりちゃんの学校、大学だけキャンパスが向こうにあるから近くなるわね。よかったわね」
「はい」
かおりちゃんは終始にこにこしていて、とても可愛かった。
慎一は、まるで私達に説明するかのように話した。その対象に、かおりちゃんも含まれているのだろう。
かおりちゃんは推薦入学予定の女子大に籍を置きながら、音大附属教室の特待生として内定をもらっていること。平日は女子大で、土曜日に音大でレッスンを受けること。
教授に教わっていたし、史上最年少でのグランプリで名誉なことだから、このまま勉強を続けていれば登録更新されるだろう。大学で教授のレッスンも堂々と受けられるし、大学の公式行事や演奏会にも参加資格があること。
大学が指定するコンクールで一位という肩書きがあるので、卒業後は慎一と同じで、かおりちゃんが望めば大学の講師と音楽教室の講師採用試験に応募できること。
慎一とかおりちゃんで、連弾や2台ピアノのデュオを組んで、ピアニストとして演奏活動をしたり、大学でデュオのクラスや室内楽講座を開設することも考えていること。
かおりちゃんは若いので、大学卒業後、一緒に海外の大学院に行くことなど、今後考えていきたいと思っていること。
なるほど。準備していたのはコレだったのか…………。いったいいつから計画して……計画したって、そんなうまくいくなんて、信じられない…………。私は、自分が想像していた範囲の狭さと、自分が挑戦できる高さまで挑む努力の甘さを突きつけられたようだった。完敗だ。いや、最初から勝負事なんかではなかったけれど。
「いかがでしょうか……」
「異義なし!」
これは藤原さんだ。
「うん、楽しみだな。頑張りなさい。結婚式は我々も招待したいお客様がそれなりにあるから、任せてもらおう。3月末でいいかな?」
夫も応援の言葉を送った。
「ありがとうございます。よろしくお願いします。後は、かおりはオーケストラとのコンチェルト共演コンサートと、3月頭にソロリサイタルがありますので、応援よろしくお願いいたします」
皆で拍手をした。
私達は新たな絆が生まれるようで、嬉しかった。