8 僕の目から見た両親の姿
僕は帰ったばかりなのに、また家を出た。
両親は仲がいい。
家でも手を握ったり肩を抱いたりするのはしょっちゅうだ。僕がいないところでキスしているのを、うっかり見つけてしまったこともある。
父親が側にくっついている時は、いつもハキハキした母親が、黙ってされるがままになっている。出会った経緯なんて知らないけれど、父親が母親のことを好きになったのだろうと想像がつく。僕にとって四人いる筈の、祖父母の誰とも関わりがないことがどういうことなのかも…………。
僕が知らない、大人の事情はたくさんあるのだろう。父親は格好いいし、努力家で優等生の母親も自慢の両親だ。しかし、かおりへの想いを抑えている僕にとっては、両親がそろっているところを見たら目の毒……雰囲気だけでもお腹いっぱいだ。
父親は滅多にいないし、家は広い。在宅でもあからさまにくっついているわけではないが、今日はそこにいたくなかった。
階段を上がり、かおりの家のインターホンを押した。
「あぁ、慎一君。今日はありがとう」
かおりのお父さんが出てきた。かおりのお父さんはいつも優しくて穏やかで、安心する。
「お父さん、こちらこそ、今日はありがとうございました。かおりを外で……夕食に誘ってもいいですか?」
「あぁ、ありがとう。呼んでくるよ」
奥からかおりが現れた。
「かおり、いつものティールームでお祝いしたいと思って」
「はい」
にこっと笑うかおりは可愛かった。それはいつものかおりだったが、制服のボレロを脱ぎ、リボンを外した白いブラウス姿だった。
かおりは発育がいい。小学生なのに胸も目立つ。つい最近、僕が母親に指摘したからかブラをつけているのだが、キャミソールから透けてるし……。その下着は……同じ中学の女子達よりも女っぽくて上質なことまでわかる。形がくっきりと隆起していて、これならブラをしていない方がぼんやりしているだけマシだったかもしれない。
こっちは健全な中三男子だ。学校での男同士の会話なんて、とてもかおりには聞かせられない。まぁ、意味はわからないにしても。制服を脱ぎかけたかおりの姿を見てしまったようで、目を逸らす。
「ボレロを着て、リボンを持ってきて」
「はい」
奥に行ったかおりの声は聞こえなかったが、お父さんの、いってらっしゃいという声とともに二人が出てきた。
僕は、ボレロを着たかおりの手からリボンを抜き取り、さっと襟から通して結んだ。
僕達を見送りに来てくれたかおりのお父さんが、もう一度「いってらっしゃい、気をつけて」と言ってくれた。大人の男性の余裕のある笑顔に、『お父さん』とはこういう感じだよなと、自分の父親との違いに思いを馳せる。
徒歩で行けるデパートの高層階のティールーム。ここは子供の頃から僕達家族がかおりと頻繁に訪れている、言わば近所の店だ。
週末なのに、かおりは制服で僕はスーツで、大人がデートしている気分で心地よかった。
かおりの学校の生徒は人数が少ないし、赤いリボンに明るいグレーの制服は目立つ。果物が豊富なティールームは夕食を食べるような店ではないから、この時間でも空いていた。
いつもの店員さんが、いつもの席を案内してくれた。
メニューなんて一回来れば覚えられるほどの数だし、高級なだけで、とりたてて珍しいものはない。どれも美味しい。というか、美味しいものしか知らない。季節の品が時折加わるだけなのに、かおりは毎回必ず上から下へと目を通す。それでも、かおりの好きな物は変わらない。カスタードプリン、小さくカットされた果物が乗ったショートケーキだ。
一度、フルーツタルトを頼んだ時に形が崩れて大変なことになり、会話どころではなくなった。再びタルトを頼んだらやんわり止めさせようと思ったくらいだが、それ以降二度と頼むことはなかった。そんなことを思い出して、笑いそうになる。
いや、今日はタルトでもフルーツカレーでもサンドウィッチでもケーキセットでもいい。何でもいいから、かおりに何か食べさせたかった。僕の目の前で、かおりに何かを食べてほしかった。かおりは食べるのが遅い。その様子をずっと見つめても、不自然ではない。それは僕の密かな幸せだった。
かおりの目が、メニューの一点に注がれた。僕は目で店員を呼んだ。
「お決まりになりましたか?」
「フルーツカレーをお願いします」
かおりがそう言ったので、
「僕も同じものを」
と伝えた。
これでようやくかおりに食べさせることができる。僕達が昼食をとっていないのを、大人達は忘れているのだろう。果たして、かおりはどれだけ食べるのだろうか。
店員がいなくなってから、僕は姿勢をあらためてかおりを見つめた。
僕は、かおりが産まれてからずっと見つめてきた。
僕は、かおりが自然に奏でる美しい音色、教授が惚れ込んだかおりの才能を羨ましく思っていた。
あの『愛の夢』を聴いて、その美しさに感動すると同時に悔しさをも味わった。教授の手によってみるみる変わっていくかおりの音色に、僕の色を塗り替えられてしまったかのような気がした。かおりを生き生きと羽ばたかせる教授に嫉妬していた。かおりの才能にも。そう、こういうのを才能というのだろう。
僕は、僕にはそんな才能はない。弾く才能も、教える才能も。だが相手は『世界の教授』だ。そんなことを恥じることも悲観することもない。僕は僕にできることを真摯に頑張ればいい。かおりを教えることも、そのうちのひとつだ。
今はまだ、長すぎる恋心や、恋人としてつきあってほしいというような要求を伝える時期ではない。
ただただ、かおりが側にいてくれる感謝を、かおりが僕の求める音楽を体現してくれたことへの感謝を伝えよう。
「かおり。……本番前、僕が『いつもと同じように、美しい音で、気持ちをこめて丁寧に弾いてきて』と言ったその通りにしてくれて、嬉しかった。素敵だったよ。おめでとう」
僕は、心を込めて伝えた。
今の僕の、精一杯の気持ちを。
最大限の感謝を。
かおりは、
「先生が素敵だったから、ここまでついてきたんです。素敵だと仰る私の音は、先生に教えていただいたものです」
と真っ直ぐに答えた。
かおりが僕にそんなことを言うなんて。
僕は告白するくらい緊張したというのに、かおりの方が大胆なことを言わなかったか?
かおりは、真剣だった。
かおりはふざけたり冗談を言う女の子ではない。それに、まだ僕のことを男として見ていないだろう。それでもいい。
その真剣な眼差しは、僕に自信を取り戻させてくれた。
僕は、ようやくかおりに微笑むことができた。
フルーツカレーが運ばれてきた。
猫舌のかおりがすぐに食べられるくらいの温かさになっている。僕がかおりに微笑んだのとは全く別物の笑顔でカレーを見るかおりを見て、僕は笑ってしまう。およそ『食欲旺盛』などという言葉を連想させないかおりにも、これだけお腹がすけば、こんな表情をするのだ。それを僕に見せてくれることが嬉しい。僕も自然に笑顔になれる。学校では絶対にしない。いや、男子といる時はそんなことばかりでもないのだけれど。
僕の顔と、高すぎる身長は父親似だ。学校で一人でいるとすかさず女子がやってきて何かを言う。何かに答えると更に面倒なことになるので、表情を見せないよう無言でやり過ごすのが常だった。
だが、
「誰か好きな人がいるの?」
と聞かれたら「いる」と答えていた。かおりの学校は有名なお嬢様学校だ。『聖花女学院』だなんて絶対に言えない。
かおりに、僕のことを好きになってもらいたい。本当は、かおりが僕のことを好きかどうか知りたい。
例えば、父親が運転する車の助手席で、安心したように目を閉じて寛ぐ母親の姿。僕も早くそんなことができる大人になりたい。かおりに、心から信頼される存在になりたい。
昔から、かおりのパパや僕の父親が抱きしめて頬をつけると安心したように眠るのを知っている。本当は僕もしてみたい。かおりは僕が頬を寄せたらどうなるだろうか……ダメだ。想像するだけで我慢できなくなりそうだ。
フルーツカレーに、僕はサンドウィッチを追加して、かおりはカスタードプリンを追加した。
かおりの歩幅と速さにあわせて歩き、家に向かう。
並んで歩くことも距離が近くて、これはこれで密かに嬉しい。僕が通う学校の近くの道路みたいに住宅街だったら、車や自転車が来たら手を引いてみたり、ちょっと肩を抱きよせたりできるのかもしれないが、このあたりは車線も複数あり、自転車専用と歩道の区切りまである。贅沢極まりない。僕達の関係も、そんなところだろう。
手を握ることもできない。かおりが初等部になる前は、手をつなぐのは勿論、気軽に抱っこしたりしていたのに。ぽちゃぽちゃした、かおりの体を覚えている。柔らかくて、いつまでも抱っこしていたかった。かおりも、僕にぎゅうっとしがみついて、かわいかった。だが今はダメだ。
かおりのお父さんに気に入られる男になりたい。安心して僕に託してもらえるような男になりたい。それまでは我慢するつもりでいる。
ゆっくり歩いても、たいして時間はかからずに社宅に着いた。
階段を上がってかおりの家に送っていくと、お父さんが出てきた。
かおりは、僕の隣からお父さんの腰にすうっと抱きついて「ただいま」と言った。お父さんも、それを受けてかおりの背中に手を添えた。
かおりのお父さんは、明るくて朗らかで、僕から見ても素敵な男性だ。
「かおり、おやすみ」
「先生、おやすみなさい」
かおりは僕を見てにこっと笑った。
早く高校生になりたい。
僕にとって大切な両親に、なるべく経済的な負担をかけたくない。このまま上位の成績を維持して内部進学して高校までは国立で。母親が講師をしている私立の音大には特待生で入れるように全力を尽くそう。
最短ルートでピアニストになるために。
仕事を得て、かおりと結婚するために。
かおりのような才能がない僕は、練習することで身を立てるのだ。それは、かおりが小さい頃から感じていた。
きっと母親も僕と同じ性質だろう。たくさん練習して大学・大学院とも首席だったという母親がどれだけの努力をしたのか、僕はまだわかっていない。それに音大生のレベルも判らなければ、僕と同学年の学生のレベルも、まだ比較したことがない。
これからの僕の努力がそれに足らないのであれば、指摘してもらうつもりだ。世話焼きで少々煩い母親だが、味方についてもらおう。
僕の夢の実現のために。