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こんな恋がしたかった  作者: 槇 慎一
7/13

7 息子の決意と理解ある夫



 小学五年生のかおりちゃんが初めてのコンクールで演奏した『愛の夢』は、小学四年生から六年生までが参加した高学年部門での一位と、音色の美しさで審査員特別賞をもらった。


 かおりちゃんは、表彰式の舞台から降りてきて真っ先に慎一のところに行き、二枚の賞状を見せた。

 にこっと笑ったかおりちゃんに、慎一は笑顔を見せた。


 それだけ?


 私には、かおりちゃんが慎一への気持ちを込めた、あの演奏だけでも感涙にむせぶ程だったのに……唯一の弟子が、初めてのコンクールで一位になった嬉しさって、たったそれだけなのかと訝しむほど、落ち着いた……儀礼的な笑顔だった。


 慎一が何を考えているのかわからなかった。まさか自分の指導力が如何程かを明らかにするためにかおりちゃんをコンクールに出したわけではないだろう。そんな子ではないと思っていた。

 

 四月の発表会で、かおりちゃんの演奏を聴かせてもらった時でさえ驚いたその美しい音色は、更に磨きがかかっていた。慎一はどうやってここまで持っていったのかと、感動するより、指導者として不思議だった。


 自分が持っている技術を教えることは可能だけれど、自分が持たない技術を、理想や憧れとして体現させることはどの程度可能なのか。それを理解して吸収して表現することのできるかおりちゃんの感性故か。


 かおりちゃんの音は、慎一の特徴である透明感のある音色とも違う。私は気づいた。そうだ……『世界の教授』と呼ばれているロシア人の教授だ。慎一はかおりちゃんを連れて行って、教授に見てもらったのだろう。レッスン代は?誰からも請求されていない。いいのだろうか。知らなかったでは済まない。藤原さんもあの様子では知らないだろうし、一般の方ならワンレッスンの金額にびっくりしてしまうだろう。それは後で慎一に確認しよう。


 演奏について書かれた講評用紙は、慎一が目を通した後で私にも見せてくれた。


 点数で決めるコンクール、審査会議で協議して決めるコンクール、審査内容を公開するコンクール、一切非公開のコンクールなど、色々なスタイルがある。

 それは、罫線の無い大きな白枠の用紙だった。審査員の先生方の人数と同じ枚数の講評用紙。そこには、これまで無名だったかおりちゃんの演奏に、純粋な音の美しさ、会場の響きまで意識せずとも計算したかのような低音から高音までのバランス感覚、耳の良さがわかるペダリングの加減、和音や楽曲の構成から場面ごとに変化する経過の味わいに至るまで、最大の賛辞と今後の応援の言葉の数々を頂いた。

 もっとこうしたほうがよいなどという指摘の類は一片もなかった。満場一致は間違いない。やはり、親バカではなかった。かおりちゃんの芸術性を再認識した。

 間違いなく嬉しいことなのに、それを教えた慎一の手腕に、私は完敗の気持ちすらあった。私が教えていては、同じ結果にはならなかったろう。私自身の器の小ささでは………。


 これでよかったのだ。悦子の絵が美しいのと同じように、かおりちゃんの音は美しい……才能とはこういうものなのだろう。


 それぞれの思惑から、帰りの電車では四人ともほとんど言葉を発しなかった。そのうちに、かおりちゃんは藤原さんにもたれて眠っていた。膝の上に置かれたかおりちゃんの手は大きく、指が長い。この指先からあの美しい音が奏でられたのかと、神秘的までの、あの音色を思い出していた。




 

 

 藤原さんとかおりちゃんと別れ、慎一と二人で家に入った。


 私は何から切り出すか迷った。


 慎一のご機嫌を取りたいわけではない。教授のレッスンのこと、何故連れて行ったのか、それからレッスンの内容も聞きたい。教授の、かおりちゃんへの印象も。


「おぅ、おかえり。遠くまで行った割に、早かったな」


 意外なことに、夫が先に帰宅していた。


「お父さん、ただいま。お母さんも、進路について話していいかな」


 まさか慎一から話してくれるなんて!

 私はお茶の用意もそこそこに、がばりとテーブルについたら夫が笑った。


「るり子、慎一は逃げないからお茶入れてくれ。あ、俺が入れるよ。疲れただろ?」


 夫は、サッと立ち上がってキッチンに行った。夫だって、今日は藤原さんの代わりに仕事に出ていたのだ。どのくらい疲れたのかはわからないけれど。


「ありがとう」

 私は有り難く座り直した。慎一も席についた。きっと、夫が来たら話してくれるだろう。


 リビングに、珈琲の香りが漂ってくる。


「おまたせ」

 夫が珈琲を持ってきてくれた。


「お父さん、かおりは高学年部門で一位だった。音色が良かったって、審査員特別賞ももらった。でも、それは僕の指導力じゃないんだ。かおりがすごいってだけでもない」


 私達は黙って慎一が続けるのを待った。


「僕はこの前のレッスンで、いや……最近レッスンがうまくいってなくて……ピアノがうまくいかない苛立ちを、ずっと教授にぶつけていた。……ごめんなさい」


 意外な告白に驚いた。


「教授に、そんなシンイチは良いピアニストにもなれないし、良い教師にもなれないと言われた。僕にも生徒がいますと言ったら、今すぐ連れてこいって言われて……。一回ここに戻って、練習していたかおりを教授のところに連れて行ったんだ。教授はまさか僕が本当に連れてくるとは思わなかったのか、驚いていた。教授が何か弾かせろって言ったから、かおりに『愛の夢』を弾かせた」


 そういうことだったのか。


「僕がもう何も言うことがないくらいに、綺麗に仕上がっていた曲だったのに、教授はその場ですぐにかおりにレッスンした。かおりは言葉もわからなかった筈だし、僕は通訳する暇も与えられなかったから、二人の音のやり取りを見ていただけで……かおりは教授の音色と、その技術を瞬く間に掴んでいった。かおりのこと、とても……気に入ったみたいで……」


 それは、さぞ複雑な心境で、きっと……悔しいことだっただろう。


「だから、今日のかおりの賞は、僕の指導力の結果ではない。僕自身は……僕自身はそこまでかおりを生かせない……まだ、未熟だ」


 そんなこと、あたりまえじゃないの!


 私は、何かを吐き出したかった。私ですら、私だって、まだ未熟者よ。一生そうよ。そういうものよ。あたりまえよ。


 夫は慎一よりも私を見て、目で宥めてくれた。


「だから……勉強も大切だと思うから、高校はこのまま進学して、大学から音大に行きたい。教授のことは心から尊敬している。教授が僕のことを大切にしてくれてるのもわかってる。習わせてもらってるのに、自分の限界まで真剣にやっていなかった。これから、自分自身のために頑張るから。お母さんも、僕に必要だと思ったことは助言してください」




 立派になった。


 慎一がかおりちゃんのために『エリーゼのために』を綺麗に弾けるようになったことや、『スケルツォ』を弾いた心身の成長を思い出す。


 今回も、かおりちゃんのおかげだ。かおりちゃんには、こちら側の事情はわからなくても、この出来事がどんなに価値のあることか。

 私は、かおりちゃんにどれだけたくさんの『ありがとう』を伝えたらいいだろうか。


「頑張れよ。慎一には慎一の良さがある。たくさんの人を魅了してやまないピアニストになると期待している。教授が素晴らしいことは勿論だが、そこまでかおりを育てたのは慎一だ。なぁ、るり子」


「えぇ、本当に。慎一が話してくれて嬉しかった。今の学校もあなたにあっていると思うし、幅広く学んだことは必ず役に立つわ。音大入試の成績でピアノ演奏科で唯一人、特待生になれる。首席の目安になる。ぜひ、それを目指して頑張ってほしい。かおりちゃんを教えることも、続けてほしいと思ってる」


「わかった。ありがとう」


 夢みたいな展開だった。

 慎一の、真剣な目。そんな眼差しは久しぶりだと思ったけれど、何故か見慣れたものだと気がついた。そう、夫の目と同じ。私の音楽を応援してくれる眼差しと同じ。口先だけではない愛情を、私は確かに感じている。


 出会ったときから、ずっと。


 幸せで、嬉しくて泣きそうになる。


「おい、るり子。ゴールじゃない、スタートラインに立ったところだろ?」


 目の前が真っ暗になったと思ったら、夫が私を抱きしめていた。


「……かおりに、おめでとうを言ってくる」

「まだ言ってなかったのか?ゆっくりしてこい」


 さっと立ち上がったらしい気配。次の瞬間には玄関のドアが閉まった音。途端、キスしてきた。


「ちょっと、慎一の前で!こんなところで!」

「慎一がいなくなってからにしただろ?るり子が嬉しい時にしたいんだ」


 嬉しさをわかってくれて、私は胸がいっぱいだった。

 それにしても、夫は唇が腫れるほどキスをする。そんなの、あなたに出会うまで知らなかった。抱かれるのが心地好いものだということも。


 私が彼を愛することで、彼が男として嬉しいことなのも。私があなたに与えられる愛があるなんて。きっと、他の女性には見せない顔も、私には隠さずに見せてくれる。それがとても愛しい。そんな愛を知らなかった。みんなあなたが教えてくれた。私が知りたかった幸福感。


 慎一とかおりちゃんみたいな、あんな恋をしてみたかったと思う。


 でも、あなたと出会えてよかった。


 私は今でも、あなたに恋をしているから。













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