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こんな恋がしたかった  作者: 槇 慎一
6/13

6 まるで息子が大人みたいな



 電車を降りて目的地まで数分歩いたが、コンクール会場は駅の出口を出たらすぐにわかった。何しろ周りに背の高い建物が少なく、それは遠くに見えていた。


 受付では一目でピアノの先生だと判るような、もしくは保護者と参加者が列を作っていた。慎一は当然のようにかおりちゃんを促してその列に二人で並んだ。私は正直なところ、指導者が『大人』ではないことに、不審に思われないかと落ち着かなかった。いくら長身とはいえ、中学生だ。藤原さんはおそらくわかっていないので落ち着いていらっしゃったけれど。


 少し離れたところから様子を伺っていたが、特に問題はなかったようだ。この四月の誕生日のために誂えたスーツを着た慎一は、ますます夫に似てきた。


 そんな見当違いの心配をする必要はなかったらしい。注意事項等の書かれた紙と、演奏順と思われる番号札をもらってきた。ホールでは、低学年部門が演奏している。スピーカーからマイクを通した音が聴こえてくる。


 かおりちゃんは、高学年部門の最終演奏者だった。といっても都内で行われるようなコンクールとは違い、10人と少しの人数だった。低学年はそれなりに人数が多いが、専門に進まない子の方が多い。私は小さい子供を教える予定はない。正直、わざわざ聴かなくてもいい。

 それよりも、かおりちゃんの該当部門の演奏までにも、もう少し時間がある。ちょうど昼食の時間だった。


「何か食べに行きましょうか?」

 私は皆に声をかけた。慎一は、かおりちゃんにどうしたいか聞いた。そうだ、これから演奏するなら集中したいかもしれない。慎一はかおりちゃんの口元に耳を寄せた。かおりちゃんが言いづらいような時に見せる、慎一の配慮だった。


「……今は、……食べられない……ここにいたい」

 かおりちゃんの微かな声が聞こえた。


「僕達は、後で食べるよ。お母さん達はお先にどうぞ」

 慎一は藤原さんに頭を下げた。

 確かに、私が一緒にいたら余計にあれこれ世話を焼いてしまいそうだし、かおりちゃんが集中できない。慎一に任せよう。


「わかったわ。かおりちゃん、楽しみにしてるわね」

 私は努めてサラリと言った。藤原さんは心配なのか、少々名残惜しいのか、かおりちゃんを抱きしめた。キスをするように頬をつけ、「じゃあね、かおり」と言って離れた。一瞬のことだったのか、数秒のことだったのか。


 その様子を見て思いついた。悦子と出会った頃はともかく、藤原さんはもう長く商社にお勤めだし、外国人の方とのやりとりが多いのかも。日本人の男性にしては照れずにスキンシップができる方なのかもしれない。よく知らないけど。


 音大にも、外国人客員教授は多い。彼等はおおらかで、挨拶から会話からレッスン風景まで表現力豊かだ。


 少し離れたところからもう一度そちらを振り返ると、ロビーの奥の広いベンチに並んで腰掛けているのが見えた。かおりちゃんの明るいグレーの制服が、遠くからでもわかる。心を落ち着かせ、静かに集中力を高めていくのだろう。慎一がかおりちゃんに対してそんな配慮をしていることに、精神的な成長を感じた。これだけでも、コンクールに参加させてよかったなと思えた。まだ、弾いてもいないのに。


 会場は市の複合施設でもあったから、私達は完全に外に出ずとも中にある喫茶店に腰を落ち着けた。藤原さんは、こういった子供のピアノの発表会やコンクールには疎いけれど、私が演奏する時に、何度か来てくれた。


 私の大学の卒業演奏会には、悦子と二人で来てくれた。毎年のリサイタルにも……部下の方を連れて来てくれた。それが私と夫との最初の出会いであり、最後の自主リサイタルとなった。夫は入社したばかりと若く、五つも年下だということに驚いた。年下の男性なんて、恋愛も結婚も想定したことはなかった。夫は大人っぽかったし、いや、男性の年齢を推定できるほど私は慣れていなかった。幼稚部から高等部まで女子校で、大学も大学院も女ばかりの音楽大学だったから。


 こんな私でも、何故か交際を申し込まれたことは何度かあった。父が厳しかったし、細かく干渉してくるので断っていた。いずれは留学したかったし、何よりも日々の練習が大切だった。

 友人達のほとんどは、私が大学院在学中に結婚していた。当時は25才を過ぎた独身女性なんて『行き遅れ』などと呼ばれる風潮だった。

 父の知り合いからのお見合いもたくさんあった。リサイタルに来てくれても、音楽には全く興味がないか、誰に言っても何を演奏したとしても通用するような社交辞令のオンパレードだった。教養の有無ではなく、音楽に関心が無いのにすらすらと美辞麗句を並べることのできる感性の持ち主とは相容れない。

 面と向かって「趣味として続けるのは結構だ」などと言った人もいた。まるで自分はとても理解のある男だろうとでも言うように。冗談じゃないわ!


 藤原さんが連れてきた彼……夫は全く違った。


「素敵でした。付き合ってほしい。だめ?」

 いきなり言われた。


 いつものように断わった。

「私は普段練習があるし、男性とお付き合いしたことがありません。遊びなら、お付き合いできません」

 

「真面目に言ってる。あなたの解説文章も演奏も、音楽に対する姿勢も素敵だと思ったから。それに友達思いのところも。お互いに素敵なお友達なんでしょ?」


 その言葉にぐらりと揺れたのは、リサイタル後の疲れではない。私が大好きな悦子のことも、そんな風に言ってくれて嬉しかった。

 男が私にちょっかいを出しているとお怒りだった私の父に対しても、怯むことなく堂々たる態度だった。


 「るり子さんとは、これから理解を深めるつもりです。音楽については……今日の曲目は、日本ではなかなかお目にかかれないプログラムです。僕は一曲も知りませんでした。るり子さんが書かれた解説文章を演奏前に読みました。聴いてみたくなりましたし、実際に聴いてみたら、すごく良かったです。バラキレフの『イスラメイ』……東洋的幻想曲、格好良かった。デュティユの『ソナタ』も。何回聴いたら判るようになるんだろう。シェーンベルクやストラヴィンスキーから影響を受けているというのは興味深いですね。同じ作曲家の他の曲や、他の楽器の曲を聴いてみたいと思いましたし、同じ年代の作曲家の曲も教えてもらいたいと思いました。評論家ではありませんから、上手く言えませんが……一つの音も妥協のないような、音楽への情熱が伝わりました」


 私の心は、それでもう決まったようなものだった。


「彼の方が、よっぽど音楽を判っているわ!お父様の方が彼に教えていただいたら?お父様が判ってくださらないから、このプログラムにしたのよ!来てくださったお客様には感謝しているけれど、お父様のお仕事の方しか来られないし、皆お世辞ばかり言うから、私は誰でも知っているような曲は弾かないわ!国際コンクールに通ったら、フランスに留学させて頂きたいです!婚期が遅れるって言うなら、結婚なんてしなくて結構です!」

「るり子程度で、通るわけがないだろう!」


 一瞬、何を言われたのかわからなかった。でも。


「何よそれ……応援してくれているわけじゃないってこと?」


 彼の声が聞こえてきた。


「るり子さん、……俺と結婚してフランスに行くのはどう?コンクールも受けたらいい。俺は応援する。多分俺は出張が多い。結婚してもピアノを弾く時間がある。ちゃんと自分をしっかり持って音楽がある君は、人間として尊敬している」



 そして、社宅……。既に悦子が住んでいる社宅に住めるなら。私達が通った、陽だまりのようなあの学校に徒歩で通える社宅。女の子が産まれたら、是非とも通わせたい。その一瞬で、そんなことまで考えた。父の知り合いなんて嫌だし、悪い虫がつかないようにと家に閉じ込められていたら、もう出会う機会すらないのだ。



 藤原さんが後ろを振り返って、悦子の肩を優しく抱きかかえた。

「悦子、大丈夫だよ。喧嘩しているんじゃないんだ。皆、急いで仲良くなろうとしているだけなんだ。大人になると、時間がないからね」


 そうだ。もう、こんなの嫌だ。

 こんな時間、もったいない。


「私、あなたと仲良くなりたいです」


 藤原さんは、彼に何かを渡した。

「社宅の鍵だ。家具もあるから、直ぐに住めるよ」


 長い手が伸びてきて腰から持っていかれた。


「今?今日?待って、ドレスだし!」

「着替えなくていいよ。シンデレラみたいでいいじゃない?」


 白馬にも乗っていない、少女小説に出てきそうな軍服でもない、流行りの商社マン……こんな現代版の王子様に、ドレスのままの私がさらっていかれるなんて本当にあるのかと驚きつつ、私は彼の全てを受け入れてしまった。


 入籍したのは、その翌日。






 彼と一緒に幸せを連れてきてくれた藤原さんには感謝している。こうして二人で話をするのは久しぶりだ。私と夫が駆け落ちしたことは、子供達には話していない。


 ピラフとサラダが二つずつ運ばれてきた。


「すみません、懐かしいことを思い出してしまって。藤原さんにはお世話になりました」


「こちらこそ。僕こそ、悦子に出会った日からるり子さんのお世話になっている。しかも、今は娘までが慎一君に……足手まといになっていないだろうか」


「そんなこと。慎一は家ではすっかり無口になってしまって。年頃なんでしょうが、かおりちゃんのおかげであんな慎一の姿は久しぶりに見ましたわ」


「優しいところも槇君に似ているね。慎一君は今……。中三?受験生かい?」


「いいえ。全員進学できるわけではないのですけれど、今の成績であれば、附属高校にはおそらく問題ないかと」


「優秀だね。るり子さんに似たのかな?」


 私は、笑って曖昧にごまかした。

 密かに、音大附属の音楽高校に行かせたい気持ちもあった。しかし慎一からは何も言ってこない。慎一は、このまま附属中学から上の高校に内部進学できるだけの成績がある。それが普通の選択だろう。

 でもその後で一般の大学に進学するか、音大を選択肢に入れるか、私はまた彼の決断を待つことになる。せっかちな私には気が遠くなるような話なのだ。せめて、今はこう考えているからと意思表示してくれれば、こんなにやきもきすることもないのに。


「かおりちゃん、いつも満点ですって?」

 私は気分を変えて言った。


「そうだね、答案を見せてくれるよ。点数はともかく、字が丁寧でなかなか好くてね。親馬鹿で申し訳ない。そうだ、この前るり子さんに洋服を選んでもらったことも、とても嬉しそうだった。ありがとう。僕はわからないから」

「そうですね。流石に下着などはお父様よりも私の方が詳しいかもしれませんわ」

 私は軽くおどけてみせた。

 

「えっ……そうだったのか、申し訳ない」

 藤原さんは絶句して、伸ばした背中を小さくしてしまった。レシートを渡して代金は頂いたが、洋服だけだと思っていたのか、それとも品名までご覧にならなかったのか、キャミソールなどという単語はご存知ないのか……それは置いておくとして。となると、アレも知らないか。


「かおりちゃん、大人の女性の準備が始まりました。腹痛があったようで……これからも、そういうことがあるかもしれません。薬がなかったので我慢していたと思います。どのくらいの痛みなのかは、まだ本人も慣れていないでしょうから…………」


 藤原さんはため息のような……その表情は悲しそうに見えた。

「知らなかったよ。我慢していたのか……」

「なかなか、お父様には言えないと思いますわ。知らないことにしてあげてくださいな。勿論、慎一にも伝えていませんから。ただ、体調管理は本人も慣れるまでは難しいと思いますし、言いづらいでしょう。それだけご承知おきくださいませ」


 藤原さんには、娘がいつの間にか成長してしまったような、そんな気がするのだろう。


 すっかり冷めてしまったピラフを食べ、私達はそれぞれの思いでコンクール会場に戻った。


 









 

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