5 思春期の息子は扱いにくい
穏やかな性格故か、少々遅めの思春期で、無口な慎一に気を使う毎日だった。
慎一が教授のレッスンに行き、何かがあったであろう日の翌日から、さらに話しかけにくい雰囲気に包まれていった。尤も、それは慎一が自分自身に対する緊迫感であって、私に対して乱暴な口をきいたりぞんざいに振る舞ったりするわけではなかった。
かおりちゃんのコンクールが数日後だから、慎一なりに真剣に取り組んでいるのだろうと思った。
コンクールの日。
行き慣れた近くの会場ならば車で行くところだが、初めての場所。車だと所要時間も読めないし、確実に受付時刻に到着したいからと、慎一は電車での計画を立てていた。
私達の家の前に現れたかおりちゃんは、正装であるブラウスにボレロを合わせた制服を着ていた。
「おはようございます」
にこっとしたかおりちゃんは可愛いのだが、リボンの結び目と向きが変だった。私はその場ですぐに結び直した。
結び終わってから左右を見ると、慎一は目を逸していたし、かおりちゃんは恥ずかしそうな、いたたまれない表情をしていたことに気づいた。しまった。余計なことをしてしまったか。お節介な自分を反省する。
藤原さんとかおりちゃんと、慎一と私でのお出掛け。どう見ても夫婦と子供二人の四人家族みたいだろう。夫ともこんな風に電車で出掛けたことは殆どなく、不思議な気持ちだった。考えすぎだろうか。
最寄り駅から乗り、ターミナル駅で郊外に向かう電車に乗り換える。藤原さんも私も、勿論慎一も、駅特有の縦横無尽とも言える人混みの中を、流れに乗りつつ自らの目的地に向かって進むことができる。
慣れていない人が一人。流れに乗れておらず、慎一が庇うようにゆっくり歩いていた。慎一の後ろでさえ、人にぶつかっては謝り、向き直った方向がとんでもない方向を向いていたりするのが見えた。持っていた布製のバッグも混乱に一役買っており、バッグだけが人混みにのまれ、手が引っぱられているのも見えた。こんなことなら私が引っ張っていけばよかった。かおりちゃんが小さい頃は、夫か慎一が抱っこしていた。流石にもう抱っこだなんて年ではないし、慎一は手を繋ぐでもなかった。
私は先に歩いては振り返って二人を探し、間が空きすぎないように先に立っては後ろを気にした。乗り換えってこんなにぐったりするほど大変なものだっただろうかと思いつつ、ともかく無事に乗り換えた。
ここからしばらく時間がかかる。
慎一はかおりちゃんにそれを伝えた。かおりちゃんは、布のバッグから本を取り出した。少女向けのファンタジーだろうか。表紙と題名を見る限り、この前ティールームで教えてくれた動物の物語に違いない。でも、慎一の手前があるから黙っておこう。
慎一はかおりちゃんに、「どんな本なのか、教えて?」と優しく聞いた。私と同じ質問をしたことに、心の中でほくそ笑む。かおりちゃんは大切そうに本を両手で持ち、表紙を見せながら「まだ、途中までなんだけど……」と話し始めた。
相変わらず小さい声でゆっくりだったけれど、あらすじの伝え方がこの前よりも上手になっていた。話の内容も進んでいて、学習能力の高さに感心した。
そして、かおりちゃん自身がまだ読み終わっていないからか、この先どうなるかわからない、どうなるんだろう、こうなってほしい、という気持ちにあふれ、主人公を応援し、こちらまで読みたくなるような気持ちにさせられた。
慎一は笑顔で相槌をうち、時折かおりちゃんの膝から滑り落ちそうになる布のバッグを膝に乗せ直しながら聞いていた。穏やかで、優しい慎一。勿論、その優しさはかおりちゃんに向けられているものだということはわかっている。
見た目は夫と全く同じくらいによく似ている慎一。この性格は誰に似たのだろうと考える。私じゃないということは、夫だろうか。
それよりも、この二人が微笑ましくて羨ましくてたまらない。慎一も、かおりちゃんに対して愛おしい気持ちでいっぱいだろう。甘酸っぱいって、こういう気持ちだろうか。私にはわからない。多分、私は男性から見たら可愛気も色気もないのだろう。かおりちゃんは可愛い。何しろまだ小学五年生だ。
目的地まで遠い筈なのに、かおりちゃんが話すのがゆっくりなので相応に時間がかかり、それでいて退屈しなかった。
ちょうど、かおりちゃんが読んだところまで話したようだ。慎一は笑って「ありがとう。続きをどうぞ」と言った。かおりちゃんは、嬉々として続きを読んだ。目線を伺うと、読むのが速い。想像以上だ。そう、かおりちゃんは話すのはゆっくりだが、学校のお勉強は問題なく、単元テストや学期のテストの類は全て満点だと聞いていた。
少人数で面倒見のよい私学の女子校で、規定の点数以下だと追試験ではなく追授業が行われる。私達の頃は『居残り』と呼んでいた。点数の基準は存外に高い。その呼び名も伝統も変わらないらしい。そこまでしないと理解したとは言えないだろう。所謂、宿題というものもないが、ないからと言って「やらない」という子達ではない。家庭環境もあるのだろうが、やはりあの学校の教育は素晴らしいわ!
この機会に聞いてしまえ、とばかりに慎一に聞いてみた。
「慎一、教授のレッスンはどう?」
慎一の視線に、あの不穏な空気が一瞬だけ垣間見えた。
「先週……かおりを連れて行きました。報告が遅くなって、すみません」
慎一は藤原さんに頭を下げた。
「そうだったのか。かおり、電車のカードの残りが少なくなったんじゃないか?駅に着いたら確認しよう」
藤原さんたら、気にするところはそっち?
何故、慎一はかおりちゃんを連れて行ったの?コンクール前だから?何があったの?この場では言いにくいかしら。聞かない方がよかったかしら。
聞いていないのはかおりちゃんだった。本に入り込んでいて、藤原さんの言葉を聞いていない。目の動き、微動だにしない姿勢、すごい集中力……それは悦子が絵を描いているときの雰囲気と同じだ。懐かしい。悦子は絵が上手だった。上手だなんて言葉では全然足らない程。それは、かおりちゃんのピアノに対しても同じだ。
私はピアニストとして、ピアノを教える者としても、かおりちゃんを大切に思っていた。慎一が『ピアノを教える』という貴重な経験をさせてもらっている、という目論見も、全く無いとは言えない。
こちらが意識しなくても出来てしまうことを言葉で、或いは聴かせて『教える』のは難しいこと。相手が必要なことであり、相手の気持ちの量にもよる。やる気、意欲をもたせ続けることも必要だ。そういう意味でも、この二人の関係は羨ましい程良好だった。だからこそ、ずっと口を出さずにいたし、かおりちゃんを教えているが為に慎一の練習時間が少なくても指摘することはなかった。尤もそれは、慎一が練習時間以外にも自分でそれを補う工夫をしていたり、やるべき時に集中していたからだ。本当に言うことはなかった。
目的地となる駅に着いた。私も藤原さんも、改札の先にある、どちら方面の出口なのかを探しながら先に立って進んだ。後ろで大きな電子音がしたが、大きな駅ではよく聞く音だから気にも留めなかった。コンクール会場は、ナントカホールではなく、公共の複合施設だったっけ。名前は……。私は案内板を探した。
「お母さん!待って!」
慎一の声がした。大きな声で私を呼ぶなんて、あまりにも珍しい。後ろを振り向くと、自動改札を通れなくなったらしいかおりちゃんが困っていて、後ろにいた慎一が対処していた。
「あ、そうだった」
藤原さんも気づいたようだ。
慎一はかおりちゃんを連れて姿が見えなくなった。奥で精算しているのだろう。慎一には、いつもかなり多めの現金を持たせている。私達は二人が出てくるのを待った。
「もう大丈夫だよ」とか何とか言ったのだろう。かおりちゃんが頷きながら改札を出てきた。そして後から慎一も。
藤原さんが「すまなかったね」と慎一に謝り、慎一は藤原さんに領収証を手渡していた。藤原さんは慎一に現金を手渡した。
そんなやりとりをする間、私はかおりちゃんが混乱したことに動揺した。かおりちゃんは徒歩通学だから、滅多に電車に乗らない。改札が閉まったこと、けたたましい音が鳴ったこと、慣れていなくてびっくりしたのだろう。悦子と同じ、大きな音が苦手で、普通の子より繊細なところがある。会場まであと少し、つまり本番まであと少しなのだ。この混乱が演奏に差し支えないか心配した。
慎一も同じことに気がついたようだ。だが、慎一は私よりもしっかりしていた。かおりちゃんの目の高さに屈んで笑顔を見せ、ゆっくりと言った。
「かおり、大丈夫だよ。お金が足りなかったら追加すればいいだけのこと。扉が閉まって、大きな音で、びっくりしたね」
まるで小さい子をなだめるように、かおりちゃんの気持ちに寄り添っていた。怯えた表情のかおりちゃんが、徐々に何かを取り戻していったのが見えるようだった。
やはり、あまり過保護にしすぎても良くないのだ。生きていく中で、こうやって多少何かあってもなんとかなること、何とかしていくことを経験して覚えさせた方がいいのだろう。慎一に対してそんな心配をしたことはないけれど、かおりちゃんも娘だとしたら、やはり同じだ。一人で放り出さないまでも、慎一がこうして必要な手助けをして……それを慎一が負担に思わないのであれば、それは双方に良いことだろう。
藤原さんも、何かを感じたのだろうか。
「いつも、ありがとう。何から何まで、申し訳ない」
私に言った。私は、
「慎一がしたことですわ」
と笑顔で手短に答えた。藤原さんは、慎一に向き直ってお礼を言い、かおりちゃんを優しく抱きしめた。
小学五年生って、パパが抱きしめたりするものだったろうか。
小学五年生って、パパに抱きしめられたら嬉しいものだったろうか。
『普通』がどういうものかはともかく、二人のそれはとても自然で、かおりちゃんは安心した様子が見てとれた。
慎一は、どう思ったのだろうか。