4 もしも私に娘がいたら
夕方。
今日は私の仕事がない曜日だったから、かおりちゃんの下校を待ち構えて、懐かしき初等部の門まで出向いた。守衛さんにも「娘の母親」みたいな顔で挨拶をして、世間話までしてしまう。
私達が住む社宅も初等部も、とある大使館の近くにある。街並みは静かで綺麗。安心して徒歩通学できる距離なのだが、社宅は学校から駅に向かう方向ではないため、お友達とは通学路が一人だけ異なる。せめて駅まで一緒だったら、お友達とのつきあい方がまた違っただろうなと思わせた。
幸いお友達は皆かおりちゃんのことを大切にしてくれている様子で、「いつもは9人なのに、今日は10人だ!」とか何とか言いながら、二列で並ぶ順番をああでもない、こうでもないとしながら駅に向かった。
かおりちゃんのことを大切にしてくれていると感じたのは気のせいではない。逆に言えば、対等ではないような雰囲気だった。おそらく、おとなしくて声が小さくて、何をしてもゆっくりで時間がかかるかおりちゃんのことを、皆が何くれとなくお手伝いしてくれているのだろう。
様子を見ていると、私達が悦子にしていたよりは現代的というか若干ドライで、何もかも先回りして手伝うのではなく、明らかに助けが必要な時には予期していたかのように誰かがサポートしているようだった。その責任者と言ったらおかしいけれど、それがマヤちゃんなのだと判った。マヤちゃんはこのグループのリーダー格で、皆の話題に入っているようで完全には入っておらず、常に意識の半分はかおりちゃんのことを気にしてくれていた。それでいて、かおりちゃんにあれこれ構っているわけではなかった。かおりちゃんも、皆に頼り切っているわけでもなく、話しているお友達のことを代わる代わる見ては、頷いたり考えたりしていた。
駅でお友達と別れ、私達はデパートに入った。
かおりちゃんとデパートでお買い物なんて、とっても楽しい。悦子は殆ど外に出ないから、こんな『娘の母親』みたいな役目は嬉しくてたまらない。
かおりちゃんは、いつもにこにこしていて、話しかけると小さな声で、ゆっくりとした返事が返ってくる。悦子と同じだ。幼稚部から高等部を卒業するまで同じ学年、同じクラスだった悦子。大学も近くだったし、たまに待ちあわせてランチしたりお茶したりした。そんなことまで思い出して、懐かしくて、幸せでたまらない。
下着だけ買いに行くのもちょっと気まずいし、実はそれが目的だというのもきまりが悪い。本当の娘ではないし。
そんなわけで、先ずお洋服売り場に連れて行った。もう子供服売り場ではない。小学生とはいえ、身長も高いし胸のふくらみも目立つ。何より、かおりちゃんは子供服ではなく、もう少しお姉さんのお洋服を選ぶ年頃になっていた。
かおりちゃんに似合いそうな、大人のお店の小さめサイズで、どれとどれを組み合わせても大丈夫なようにした。必要以上にお洒落な夫が選ぶ、慎一の私服と並んでも遜色ない、テイストの合うもの。きちんとした縫製の上質なものにしたのは、完全に私の好み。
悦子もそうだったけど、かおりちゃんもきっとお洒落にさほど興味はないのだろう。自分から選ぶ様子はなく、私が選択肢を与えると「どっちがいいと思いますか?」といちいち私に聞いてくる。私が「こっちがいいと思う」と言うとそれに決めるので、あっという間に決まった。私は即決しかしないタイプだし、仕事のように素早く決まった。女の子同士のお買い物なんて、迷うのが楽しいみたいなイメージがあるのに、どうしてかしら。
色白ですらりと背が高くて姿勢が良いかおりちゃんに、夏物のブラウス、スカート、ワンピースを一揃い、それ以上購入した。その流れで「靴下や下着も揃えましょうね」と言うと、変に思われなくて大成功で、かおりちゃんは「はい」と言って私についてきた。
サイズを測ってもらう為、店員さんにお任せしている間、私は他の物を見てみた。かおりちゃんは暑がりだし、もう肌着というよりはスリップとかキャミソールみたいなものの方がいいかしら……。
試着室から顔をのぞかせたかおりちゃんは、
「なんか……いたい……ような……」
と顔を僅かに歪ませていた。
「すぐ慣れるから大丈夫。ちょっと我慢よ」
と、ワイヤーの感じがソフトなタイプのブラジャーも選んだ。
生理用のショーツも揃えた。最近の子は早いって聞くし、『初めての時』がきたら、かおりちゃんは悦子に報告できるのかしら……それとも、私にも教えてくれるかしら。学校ではもう習ったかしらと、そんなことも気になった。
悦子はいつだったかしら……。悦子はご両親とあまり話せないらしくて、何でも私に話してくれた。かおりちゃんは、お友達に話せるかしら。
広い試着室で、学校に行く日に着る練習をさせてみた。何しろ不器用さんだ。新しいブラジャーを背中で留める練習だ。初回くらい見てあげたい気持ちにさせられる。それから新しいキャミソールに制服。
ブラウス姿のかおりちゃんを、試着室の外で見てみた。ワイヤーのあるブラジャーをつけた胸は、あるべき高さにきちんと持ちあがり、形が整えられていた。
店員さんが、かおりちゃんに下着のつけかたをもう一度教えてくれた。前から見ても横から見ても、やはり近い将来、悩殺ボディになることは間違いないなと確信した。
このままつけていくことにした。かおりちゃんは違和感があるのか、ちょっともぞもぞとしていた。そんな様子も、可笑しくて可愛かった。勿論、言わなかったけど。
下着のお店でお買い物をした後は、慎一とも三人でよく行く、お気に入りのティールームに行った。高級フルーツのデザートがメインのお店だから、ランチやディナーのメニューは少ない。かおりちゃんは、苦手なものや苦手な味なものが多いけれど、このお店のメニューならばどれでも大丈夫だった。
慎一とかおりちゃんが二人で外食するならば、ファーストフードのようなお店ではなく、こういう落ち着いた静かなお店に連れて行くようにと、慎一に言い聞かせてきた。綺麗な化粧室も近くにある。
「仲のいいお友達は?」と聞くと、「マヤちゃんです。同じクラスの仲良しのお友達は10人で一緒にいます」と答えた。やっぱりマヤちゃんか。マヤちゃんのお母様は、私と同じ大学のヴァイオリン科の先生だ。にこにこしながら答える様子に、私は安心した。
「今はどんなことに興味があるの?好きな本は?」と聞くと、今読んでいる本の話をしてくれた。動物と男の子と女の子が出てくる話らしい。声は小さいし、ゆっくりだし、要点も伝わってくるような……こないような、それでも私に一生懸命伝えようとするかおりちゃんが可愛かった。話していると食べられないし、かおりちゃんが頼んだカスタードプリンは一口も減っていない。「あらすじはもういいから召し上がれ」って言ったらよかったと後悔した。
話し方はだんだんゆっくりになった。言いにくい話でもない筈なのに。
ふと、かおりちゃんの表情が曇ったような気がした。気のせいだろうか。もしかして……。
「かおりちゃん、化粧室に行きましょうか」
私は、誘うと言うより強めに促した。生理用のショーツはさっき買ったばかり。生理用品も私が持っている。もしものことがあっても大丈夫。
予感は的中した。
かおりちゃんが私を頼ってくれて嬉しかった。私はかおりちゃんをペットのように可愛がりたいわけではない。大好きな悦子の娘だから、悦子が出来ない事を手伝ってあげたいのだ。それ故、所謂「お母さんが必要な時」にその役目を果たせたことに、ほっとした。でも、お腹が痛いらしく、すぐに休ませてあげたかった。買い物した荷物も多かったから、タクシーで帰った。
勝手知ったるかおりちゃんの家で、タクシーに乗る直前に購入したココアの缶を開け、牛乳で伸ばして温めた。かおりちゃんは乳製品が好きだし、甘味の強すぎるものも受け付けない。猫舌なかおりちゃんが、すぐに飲めそうな温かさにした。
ココアを持ってかおりちゃんの部屋に行くと、私が言った通り、温かいパジャマに着替えてベッドにもぐっていた。脱いだ制服もきちんと掛けてあった。
「……お母さん、ありがとう……」
本当に可愛い女の子だ。私の娘同然だ。
悦子は今も多分寝室にいるのだろう。
物音がしない。いつも無音だった。
自閉症という言葉を知ったのは大分後のこと。学生の頃は、シスター先生や仲良しのお友達皆で、声を掛けるなり助けてあげられたのだが、大学は別だったし、就職は出来なかった。
卒業が近くなった頃、悦子は一人で美術館に出掛け、帰りに、悪い男性に捕まってしまったらしい。それを助けたのが藤原さんということだ。とても怖い思いをしたらしいが、詳しくは聞いていない。藤原さんの携帯電話で呼ばれた私に抱きついて泣いていた悦子には誰も聞かなかったし、誰も話さなかった。藤原さんは悦子のことを気に入り、悦子の大学卒業と同時に結婚した。
結婚した悦子に、この家に何回か会いに来た。
私は藤原さんの部下である槇君と結婚して、すぐに慎一が産まれた。かおりちゃんが産まれたのは、その五年後。私達は二つの家庭で二人を育てるようにして暮らしてきた。かおりちゃんのご両親のことを「パパ、ママ」、私達夫婦のことを「お父さん、お母さん」と呼ばせることにした。慎一はもう大きくなったし、夫にも藤原さんにも同じ「お父さん」と呼んでいるけれど。
今程、かおりちゃんの「お母さん」という言葉を嬉しく感じたことはない。
ココアを飲んで、くったりと眠ったかおりちゃんを優しく撫でた。余計な物もなく、まるで生活感のない部屋。静かに見回して、そこを後にした。
自分の家に入ると、慎一が一人でショパンを弾いていた。これは何番だっただろうか……。ハ短調の、悲しげなノクターンだった。
今日、かおりちゃんに会えなかったから?大袈裟かしら。
でも、慎一はかおりちゃんに毎日欠かさずレッスンしていた。
きっと、好きだから……よね。
その透明な音色に感じた寂しさ、切なさは……。
私が今朝、片思いの人がいなくなった気持ちに似ているのかもしれない……なんて思ったよりも、はるかに情感豊かにそれを表していた。
そう、今初めて知った。
私は中学生でも知っている片思いを知らず、小学生でも知っている初恋を知らなかったのだ。