3 息子が夫に似てくる件
四月頭。
発表会が終わったばかりの夜、珍しく慎一から話しかけられた。
母親として単純に嬉しかった。慎一は私が世話をやくようなことが全くない程に自分のことを自分でしていたから。
わざとらしくならないよう、にこやかに「なあに?」と言った時には、私に相談したいのではなく、決めたことへの許可を取りたいだけだと悟った。
「これ、コンクールの参加申し込み書。全部書いたから記入漏れとか、間違いがないか確認してほしいんだ。かおりのパパには、僕から話した方がいいか、お母さんから話した方がいいか……」
ついに来たか。ため息をつきたくなった。ここまで準備してあるなんて。
慎一は、かおりちゃんをピアノのコンクールに出場させることに決めていた。
過去にそれを『相談』された時にはまだ早いと止めさせた。かおりちゃんがメンデルスゾーン作曲の『ロンド・カプリチオーソ』を弾いた時だから…………初等部三年生だった。このくらいまでは、まだまだピアノを弾く子は沢山いる。慎一には決して言えないが、上位間違いなしの子にとっては時間の無駄だと思っていた。レベルにそぐわない課題曲、練習期間、当日の待ち時間、同年代の多くの演奏を聴くことさえ……かおりちゃんには不要だと判断していた。
かおりちゃんは五年生になった。高学年ともなれば、都市部では中学受験が加熱しており、ピアノを継続するのを断念する子が多くなるらしい。コンクールの参加人数だけ見てもそれは顕著で、それまでとは嘘のように減り、ピアノを専門に学ぶつもりの子供に絞られてくる。課題曲があれば、その段階に到達していなければ参加することもできない。ちょっと習ったくらいではとても無理。かおりちゃんは進度で言えば早いけれど…………。
その参加申込み書は、丁寧な文字で書かれていた。要項も見せてもらった。都内から少し離れた都市で行われるコンクールのようだ。これを慎一が調べて準備したのか。いったいいつから…………。
自由曲、一曲のみ。予選や本選といった選抜はなく、一回きりの小規模な、聞いたこともないコンクール。日程的にも有名なコンクールの『練習』として参加するには適さない。だが、審査員の名前……人数は特別多くはないけれど、天晴と言うべき確かな顔ぶれだった。コンクール等関係なく、コメントを貰いたい人物の名が連ねてあった。特に大学の派閥等もなさそうだった。尤も、慎一もかおりちゃんも外で公式に弾かせたことはないから無名だし、派閥も系統もコネもない。
それで曲目は『愛の夢』ね……。誰もが知る有名な曲。『コンクール』には向いていないと一瞬思ったけれど、そもそもこの曲で勝負に挑む小学生はいないだろう。逆に課題曲でなければ『かおりちゃん』には向いている。技巧的にも芸術的にも、音楽的な規模も、何もかも絶妙な選択だった。そういえば慎一は発表会で『ハンガリー狂詩曲2番』を弾いた。かおりちゃんと、リストという作曲家や作風、歴史を勉強するためだったのだろうか。まさか慎一は、これを見越して発表会で『練習』をさせたのか、間違いない。レベルの高い本命コンクールの練習として、その前に行われるコンクールに出場するとか、そこまでではなくとも、コンクールに出場する前に発表会で『練習』をするのはよく聞く話。発表会が唯一の舞台となる子の取り組み方とは一線を画する。どれだけ前からこれを計画して………。
指導者の欄に書かれた『槇 慎一』という文字に、強い意志を感じた。
「わかった。私から藤原さんに話すから」
「はい」
参加者名の欄に書かれた『藤原かおり』の文字、綺麗に貼付されたかおりちゃんの制服姿の写真を見て、大きな歯車が動き出したような気がした。きっと水面下では、もっと前から動いていたのだろう。私は応援しよう。
その日の夜、私は藤原さんに会いに行った。
社宅ですぐ上の階の悦子には時折会いに行っているが、藤原さんに会うのは久しぶりだった。いつ以来だっただろうか。
「やあ、るり子さん。近いのに久しぶりだね」
「お疲れのところ、すみません。実は……」
コンクール参加申込み書と要項を見せた。
「うぅん?これは何かな……」
藤原さんは疲れも見せず、ゆったりと手に取った。初めて会った頃から変わらない、大人の男性らしい物腰は一緒にいてとても落ち着く。なのに、こんなに緊張するなんて。藤原さんは何て仰るかしら。普通に習わせている子供の保護者でも、コンクール出場に関しては受け取り方が様々だと聞く。
「慎一が、かおりちゃんにコンクールを勧めたいと」
「コンクール?」
藤原さんは、申込み書を眺めた。
「今までにも参加させたかったらしいんですけど、私が止めていたんです。慎一は何か考えがあるみたいで、もう準備はできているんです。こんな段階になって許可だけ頂きたいなんて、急なことですみません。いかがでしょうか」
「かおりが嫌がらなければ、僕は特に……」
藤原さんは申込み書を見つめたままだ。まぁ、要項は見てもわからないでしょうし。
「なにぶん初めてですから、かおりちゃんは嫌だとかより、知らないだけ……だと思います。度々連れて行く試演会と同じような感じ、と思って頂いて結構です」
「慎一君が書いたの?綺麗な字だね……。承知した。僕はどうすればいい?」
藤原さんは、まるで慎一に笑ってくれたようだった。
「あ、では……了解ということでしたら、参加費をお預かりしてもよろしいですか?」
私は、要項にある参加費の書かれたページを開いた。小さな子供でも一万円以上するこの金額だって、事情を知らない人は驚くらしい。藤原さんには懐が痛むようなものではない。それよりも、これだけ上手になっているかおりちゃんのピアノに対して、初めて料金が発生した瞬間だった。
「はい。宜しく頼むよ」
藤原さんは、お財布からさっとその額……万札と数千円を取り出して、私に渡してくれた。この責任、緊張感を、慎一は理解できるだろうか。
「ありがとうございます。かおりちゃんのピアノ、本当に素晴らしいんです。是非、聴きにいらしてください。日程はこちらに」
「そうだね、発表会にも行けなかったし。空けておくよ。いつもありがとう。慎一君に宜しくね」
私はほっと胸を撫で下ろして家に戻った。
翌朝。
私は慎一に話しかけるのが楽しみだった。何しろ、私の手を煩わせることのない子で、もう滅多に口をきいてくれないのだから。おまけに、私に「ありがとう」を言ってくれるかもしれない。
私は、ふふっと口から漏れてきそうな程、はりきって朝食の用意をした。
私よりも早起きな夫は、もっと早くに送り出した。送り出したというより、独り言のように「行ってくるよ」と、ベッドの中の私にキスをしていくのだ。頬に添えられた手の温かさと優しいキスは、朝から幸せな気持ちにさせてくれる。
慎一と二人での朝食は、五つも年下の夫と二人だった頃のひとときを思い出す。何しろ二人共長身で、顔形もそっくりだ。しかし、さっと食べてさっと出ていく後ろ姿は、世話を焼かせてくれない寂しさもある。だからせめて朝食だけは。
学生服姿の慎一がリビングに現れた。
「慎一、おはよう。昨日、藤原さんにお話してきたわよ!宜しく頼むって参加費をお預かりしたから。よかったわね!」
しまった。楽しみにしていた話題が、一瞬で終わってしまった。これでは会話にならない。果たして慎一の反応は?
「ありがとう。あとさ、お願いしたいことがもう一つあるんだけど……」
「あら、なあに?何でも言って?」
会話が終わってしまうかと思ったが、続きがあるのが嬉しくて嬉しくて、私は興味津々に身を乗り出した。
「…………かおりに、……女の子の下着買ってあげて」
私は、何のことかわからなかった。
慎一は、首を傾げた私に尚も言った。
「夏になる前に。かおりは暑がりだし、ちょっと……もう薄着なんだよね……」
あ、もしかしてブラジャーのこと? やだ、全然気にしていなかったわ。だって私は息子の母親だし。悦子も無頓着だし、そうだったのね。
「あ、そうね。そうよね、わかったわ」
息子にそんなことを言わせてしまったことが恥ずかしく、私は思わず席を立ち、そのまま悦子の家に行った。
「おはよう!かおりちゃん、いる?」
私達は各々がお互いの家の鍵を持っている。声をかけながらリビングに入ると、かおりちゃんは鏡の前で制服のリボンを結んでいた。いや、結べなくてほどこうとしたら誤ってきつく縛ってしまい、一生懸命解こうとしていた。
「あ、お母さん、おはようござ…………」
「あら!やだ、かおりちゃん、首締めてるじゃない!」
悦子と同じくらい不器用なのは変わらない。首を締めたリボンを自分で解くのはかなり大変だろう。しかしながら、このリボンを結ぶのも5年めでしょうに。毎日結んでいて、どうして未だに出来ないのかしら。形作って縫いつけてしまいたいくらいだわ。ううん、かおりちゃんが結べるようになればいいだけの話なんだけど。
私はかおりちゃんに上を向かせて、リボンを解いて結んだ。それをしながら、白いブラウスの胸を見たら、確かにこれはまずい。ちゃんとブラウスの下に肌着を着ているのにも関わらず、はっきりとわかるほどのふくらみが……。悦子も胸が大きかったな……。
「かおりちゃん、もう五年生になったし、ピアノを弾くときにはジャンパースカートかボレロ、夏は盛夏服にしましょうね。それから、今日は私とお買い物に行きましょう。初等部に迎えに行くわね!」
「え?……はい」
私は早口でまくし立て、リボンを結んだ。
「ありがとうございます」
かおりちゃんは、にこっと笑った。
私も悦子も着た制服、私も悦子も毎日結んだ赤いリボン。懐かしい。そして、かおりちゃんのことが愛しくてたまらない。きっと慎一も、そうよね。かおりちゃんはともかく、慎一もお年頃か……。
家に戻ると、もう慎一は出掛けた後だった。
まるで片思いの人がいなくなったみたいな、そんな気持ちに似ているのかもしれない。
片思いも、恋も、したことがなかった。だから、誰かを想って弾くとか、知らない。作曲家が誰かへの愛をこめて創った曲も、わかって弾いたとは言えない。それでも練習して練習して目標を達成してきた。
一人になった私はピアノに向かった。
基礎練習は欠かせない日課である。